お疲れ様です。


僕です。


なんの為に生きるのか。


家族がいる人は家族の為に。


家族がいない人は自分の為に。


自分の為に生きるっていうのは


自分の好きなように生きるってことなのかな。

 

 



 

 

先日小川洋子さんという方の


妊娠カレンダーという小説を読んでふとそんなことを考えてました。


短編が3つあり


妊娠カレンダーという話が自分の中でもやもやさせられました。


どんな話かというと


姉と義理の兄の間に子供が生まれることになるのですが


その当時アメリカ産グレープフルーツは人間の染色体を破壊すると言う話をきっかに


妹はアメリカ産のグレープフルーツでジャムを作り


これを食べさせれば生まれてくる子どもの染色体を破壊させることも出来るんでないかと考え


姉にグレープフルーツジャムを食べさせるというお話です。


これだけ書くと妹は異常者です。


ただ実際にこの話を読むとそうとは言い切れない。


両親は二人共亡くなっている。(理由もいつ亡くなったかもわからない)


姉が神経症的傾向があり過食、我儘言いたい放題。


義理の兄はことを荒立てたくないのかなにがあっても一見表面上は優しく常に傍観者の様。


そして登場人物のみんながみんな新しく生まれる子供のことを素直に喜んでいるようには思えない。


子供が生まれること=めでたいこと


という世間の常識があるけれども


はたして本当にそれはめでたいことなのか。



主人公が


姉と義理の兄の間に子供が生まれることにたいして


おめでとう


と言うことが本当におめでたいのだろうかと


疑問を感じ


生真面目におめでとう言葉の意味を調べるシーンが印象的でした。


生きるのが正しい、死ぬのはだめだというけれど


それは経験ではなくてそういうものだと教え込まれてそれを信じているだけなんだと。


登場人物みんな自分が生きるということに確固たる信念がないためなのか


そんな自分達の周りに新たに生命が誕生するということが


危険な状態であるということを


無意識にもしくは意識的に理解しているのかもしれない。


親になるということは責任だ。


もちろん喜びや将来の希望みたいなものも含めて責任を負うということ。


過去に僕が幼い頃


母が流産してしまったときに


幼かったせいもあるのか


なんの感情も抱かなかったことを思い出す。


それは自分の家庭環境に子供が増えるということは辛い思いをする人間がもう一人増えることであり


そうならなくて済んだとも言い換えることが出来る。


こんなことを社会で言ったらひどい人間だと言われるに違いない。


だけれども素直におめでとうという言葉が出てこない


なぜおめでとうなのかと疑問を感じる人もいるということは悪いことではないと思う。


自分自身の経験もそうだが


自戒の念を込めて


何事も表面をなでただけでわかった気になるのはやめようと感じました。


そんな私は


アラフォー


今のところ結婚もする予定はないですし


恋人もいません。


だけれどもいつか考えが変わるかもしれません。


なんの為に生きるのか考えながらとりあえず生きようと思います。


ここまで読んでいただいた方


本当にありがとうございます。