お疲れ様です。


僕です。


客観的に見て


自分自身がものすごく家族というものに縛られ

身動きが取れなくなっているように思える。


自分が結婚とか親になることを考えてみるけれども


その都度、両親との辛かった過去が思い出され


感情の抑制が効かなくなる。


母と話しても感情的になりすぎてしまい


まともに会話ができない。


母親自身もこちらの言ってることをまるで他人ごとのように聞いているように見えてしまい

余計に感情的になってしまう。


こんな自分が親になるとか結婚とか無理だろうなと思えてきて諦めの感情に支配される。


女性とお付き合いしても


結婚とかの話になったとしても


自分の家庭環境のことを思い出してしまい


周りの家庭との違いに萎縮してしまうし


そもそも親を紹介したいと思うことができない。


仮に親になったとして子供にちゃんと愛情を注げるかが自信がない。


涙が止まらなくなる。


父親とは一緒に住んでいなくて良かった。


いたら最悪の事態も起こっていたんではないかと考えると恐ろしい。


親の子殺し、子の親殺しなんて物騒な話がありますが家族間での殺人が1番多いんですよね。

 

こういうニュースを見ると家族って一体何なんだろうと考えてしまう。


自分には世間で言う人並の生活は難しいんだろうな。


というよりそれを諦めてしまったといったほうが正しい。


もちろん親になり子供がいたらいいなと想像したことはある。


だけれどもそれよりも自分が親になることが怖くて仕方ない。


街で赤ちゃん連れたお父さんをみるだけでもつらい


親子で銭湯に来て子供と楽しそうにしているお父さんを見ているのもつらい


今の自分とのあまりの乖離に目を塞ぎたくなる。


親の義務ってものは親である以上もちろんあることだけれども


愛情を注げなくなったらもう終わりですよね。


昔から街で子供を強い力で叩いたりしかったりしている親を見たりその子供が泣いている姿を見ると


心臓を鷲掴みされよう感じがしてこっちが苦しくなる。


頼むから子供に手を出すような親が一人でもいなくなればいいなということを切に願う。


そんな自分が仮に親になったら

手を出すことはないと言い切れるだろうか。


いや

これが言い切れないところが辛いですね。


先のことなんて誰もわからない。


氏か育ちか。 


僕は氏も育ちも信じない。というよりこの言葉をそのまんま鵜呑みにしたくないし信じない。


氏を信じてしまえば生まれつきだからしょうがないということにもなるし


育ちを信じるなら不安定な家庭環境で育ったことのせいにすることもできる。


氏の部分で言えば

もちろん遺伝的に生まれつきの要素があるのはわかる。しかしながら逆を言えばそうでない部分は自分で変えられる。


育ちの部分で言えば

自分は父親から暴力を常々ふるわれ子供の頃に会話をした記憶は一切ない。だからなぜ暴力を振るわれていたかもわからない。


そして父親は母親に暴力を振るっていた。


母親はのちに弟に暴力を振るっていた。


僕は反抗期に母親を突き飛ばした。


弟は学校で同級生にイタズラされ腹を立て殴り返した。


育ちを信じてしまえば

暴力で解決する術しかもたないしょうもない人間になってしまうし

自分は被害者なんだと被害者意識にとらわれて身動きがとれなくなる。


昔のこと思い出すだけで吐き気がする。オェーッ。


けどこの自分の思い出したくない過去、感情に蓋をせず向き合うことが自分が前を向くためには必要なんだと想う。



氏か育ちかとは言うけれども


目を凝らせば


氏でも遺伝的なもの以外は自分で変えられるし


育ちも自分の行動次第で自分を良い方向へ育てることも出来ると思っています。


そうでなきゃやってらんないですよ。



最近での母との会話を重ねる中で


答えが出始めました。


世間で言うところの普通の生活への羨望もありましたが


理学療法士という仕事が自分にはありますので


自分を必要としてくれる患者さんへのために


これからも仕事をしていこうと思います。


また明日から切替えて生きていこうと思います。



ここまで読んでいただいた方


本当にありがとうございます。