<なぜクリスチャンになったか?> ~長いです~
クリスチャンになったのは、今から10年ちょっと前 26歳の時。札幌での出来事です。
両親は無宗教に近く、母方の叔母がクリスチャンだったとは言え、自分がクリスチャンになるなんて全然考えていなかった私が、なぜクリスチャンになったか?よく教会で話すので、原稿のまま貼り付けます。


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私は、青年期は宗教的なこと一切排除し、自分の確固たる信念や価値観、道徳感、人生観もない好き勝手な日々を送っていました。
仕事は楽しかったのですが、休みになると目的も持てずに時間をもてあまし、借金をしてまで大好きな競馬やパチンコにはまっているという有様でした。自分が何を目指して生きていいのか?答えが見つからず、満たされない気持ちでいっぱいでした。
ギャンブル漬けになっている自分に嫌気がさして、自暴自棄になっていました。
就職してからの3年間はそんな生活でした。

そんな私を神様に近づけてくれたのは、新入社員時代の札幌で一緒に仕事していたHさんでした。
Hさんは、クリスチャンホーム育ち。
そのHさんに、ある日『教会でフルートをふくんだけど、聞き来ない?』と誘われました。

当時の自分にとって、教会に行くということは、想像もつかないことでした。
宗教にすがるというのは、自分が弱い証拠だ!と思っていましたし、『教会に行ったら、入信を勧誘されるのではないか?』『しつこく誘われ続けるのではないか?』という想いがよぎりました。
しかし、クリスチャンに対して、潜在的に穏やかで清楚なイメージがあったこと
そして、Hさんとうまく仕事をし始めていたので信頼関係を崩したくないという気持ちで教会へと足を運びました。

しかし、その教会で初めて聞いた牧師先生のメッセージ私は躓きます。
「イエス・キリストだけが、人の罪を背負い許すことができる」

「そんなことあるか?」走れメロスにあるように、
『私だって、十字架にかかって、友だちのために十字架にかかることはできる』
 礼拝終了後、牧師婦人に食って掛かって質問したのを覚えています。
 
 自分に罪があることをすっかり棚に上げ、自分は正義の人だと思い込んでいたわけです。
 

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 その後も、何度かその教会に足を運びました。
 
 しかし、とうとう自分の罪に気づく時がきました。
 人を裏切りました。
 その裏切りは、自分自身の心に大きなしこりを残しました。
 
 自分には罪がないと思いこんでいただけに、目の前の人を傷つけてしまったことに罪の意識が強くなりました。
 それをきっかけに、過去に自分の罪が、堰を切ったように思い出されました。

 自分が正しいと思っていたのは、過信であり、
 自分は本当は弱く、小さく、汚い者である。

 つまり、私自身が、最初に聞いた牧師先生のメッセージの中の『罪ある者』だったのです。

 この自分の罪をも、背負ってイエス様は十字架にかかってくださった。
 自分では、どんな方法をとっても罪を振り払うことはできません。
 
 しかし、神様は、そんな自分の罪を、ひとり子イエス様に負わせて、私を許してくださる!とおっしゃる。本当にそれこそ神頼み!でした。自分の罪に苦しんでいたときに、また、私は教会へと自然と足が向くようになっていました。
 自分の力では、もうどうすることもできないと思った時、神様は、次の御言葉を持って私を導いてくださいました。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(第一ヨハネ;1:9)

その神様の愛のメッセージを全身で感じてから、私の物事に対する考え方は変わっていきました。
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その後すぐ洗礼を受けた私は、自分が正しい。自分の力で、何でも解決できる。という考えから
イエス様の生き方に近づきたいという想いに変えられていきました。

 当時、職場でいつも陰口をたたかれ、どうしても許せない同僚がいました。『自分を攻める相手をも愛するイエスさま』の生き方に触れ、徐々にその人を許せるようになっていきました。
どうして陰口をたたくんだ!という気持ちではなく、相手を許し、愛するつもりで接することができるようになると、その後は不思議と、陰口をたたかれることもなくなっていきました。

 もちろん、今でも仕事上、人間関係のトラブルはよく起こります。そんな時、相手を攻める気持ちをもったり、怒りがしばらく続くこともあります。
しかし、そのトラブルを通じて、神様は何か私にメッセージを送ってくださっているに違いない!
そして、御声を聞こうと必死に祈っている間に、怒りが収まっているということは、数え切れません。
 
 本当に神様に愛されているんだな!と実感する瞬間です。

『だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。』
 自分の罪を許していただくための十字架から、今は、自分の役割、使命としての十字架を祈り、求めています。