西海岸からの便り-44(メキシコ-3)
百年で滅ぼされたアステカ帝国
1.概説前編
メキシコ中央高原にトルテカ文明が栄えた、10~11世紀に滅んだ。
その後、異民族がテスココ湖地方に次々と侵入してきた。
一番遅れてやって来たのが、アステカの人々で、彼らには湖の西側の
沼地しか残されていなかった。
小さな島に住み着き、まわりの強力な部族集団に貢ぎ物をして生き延びた。
この当初の惨めな状態から200年の間に、アステカは強大な国家を建設した。
彼らは、ある伝説を信じていた。
沼地の岩に生えているサボテンに蛇を銜えた鷲(わし)がとまると、
そこに偉大な文明が生まれるという伝説である。
アステカの神官は、その沼地で、まさに伝説のとおりの鷲の姿を見た。
この話は今でも語りつがれており、メキシコの旧紙幣にはサボテンと鷲と蛇が
描かれている
。←リンク (WEB借用)
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やがてアステカの人々はすぐれた軍事組織と行政機構を確立し、
1325年には都テノチティトランを建設した。
それが現在のメキシコシティになっている。
2.社会構造
A.階級社会
多神教に基づいた神権政治が行われ、王は王家の中から選ばれた。
これとは別に最高位の神官も存在した。
貴族階層には、世襲貴族に加え、戦争功績で平民出身貴族が存在した。
大多数は平民であった。
さらに商人は、特別な法や神殿を持つ特権集団を形成していた。
最下級に戦争捕虜や負債などのために身売りした奴隷が存在した。
これは日本の神代から明治時代までと同じだ(爆笑)
B.軍国主義
周辺のメソアメリカの諸国家と同様に、軍国主義の強い国家だった。
ジャガーの戦士や鷲の戦士を中核とする強力な軍隊が征服戦争をくり返し、
諸国民に恐れられた。
服属する国家から朝貢を受ける見返りに自治を与えて人民を間接統治した。
諸国を旅する商人は時に偵察部隊としての役割も果たし、
敵情視察や反乱情報の収集に従事した。
これは現在の世界にも十分通用する(凄い)。
C.道路網整備
現在の兵站の思想であるが、軍隊の迅速な移動を可能にするため
道路網を整備していた。細かい数字は忘れたが、軍隊集団が移動する
距離と時間の実例では、ナポレン軍で3ヶ月、ジンギスカン軍で3週間、
アステカ軍で3日だったという。
D.経済の発達
道路網を通じて諸地域の産物がアステカに集まりその繁栄を支えた。
市の中心部では毎日市場が開かれたという。
基本的な商業活動は物々交換であったが、カカオ豆が貨幣として流通し、
カカオ豆3粒で七面鳥の卵1個、カカオ豆30粒で小型のウサギ1匹、
カカオ豆500~700粒で奴隷1人と交換できた。
3.文化
A.文明
先に興ったオルメカ・テオティワカン・マヤ・トルテカ文明を継承し、
土木・建築・製陶・工芸に優れていた。
精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。
B.人身御供
特筆すべきことは人身御供の神事である。
人身御供は世界各地で普遍的に存在した儀式であるが、
アステカのそれは他と比べて特異であった。
メソアメリカでは太陽は消滅するという終末信仰が普及していて、
人間の新鮮な心臓を神に奉げることで太陽の消滅を先延ばしすることが
可能になると信じられていた。
雨乞いや豊穣を祈願する際にも人身御供の神事を行った。
アステカは多くの生贄を必要としたので、
生贄を確保するために戦争することもあった。
4. スペインによる征服
アステカには白い肌を持つ神が『一の葦の年』(西暦1519年に当る)に
戻ってくる、という伝説が存在した。
中南米においてのスペインの暴挙は、人間のすることではないのだが、
子供の様な策略に乗せられて滅んだ。
アステカ(1521)、ペルー(1533)、アルゼンチン(1516)、チリー(1541)
等などおぞましい限りである。(内容は割愛した)
この背景に、「白い肌の神」に油断してしまったのかと哀れである。
唯一、スペインを撃墜したブラジルもポルトガルに1500年頃、
懐柔されて滅んだ。
古代ローマや近世のロシアを含めて、キリスト教を信仰する欧米諸国は
個人として信用できても、国としては用心すべきだと思う。