2.満州族-2
 (平和日本の模範民族)


満州と言う言葉は、日本人には地名の印象が強いが、本来は地名の意味ではなく、民族の名前だ。
その辺は16世紀頃からの世界史地図を見たほうが早いだろう。


図1.後金国アルカディアを求めて-後金国

東アジアでは中国が混乱期を迎えていたのである。

後金」の文字が北朝鮮の上に見えますね


中国東北地方で農牧・狩猟生活を営む女真族は、毛皮や人参の交易で利益を得ていたが、
16世紀末、明の支配から自立し、建州女真のヌルハチのもとで他の女真諸部族を従え、
1616年建国し国号を「アイシン(満州語で金の意)」とした(後金)。


 余談であるが、ほぼ同じ場所に女真族は1115~1234年まで金国を形成していたが、

元のチンギスハンに滅ぼされた。4~500年後に再興したDNAも驚くね


清の勃興
17世紀初頭に明の支配下で、満洲に住む女真族の統一を進めたヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が

1616年に明から独立して建国した後金国清の前身である。


この後金国の建国と前後して、ヌルハチ満洲文字(無圏点文字)を制定し、

八旗制(一種の連合統治制)を創始する等、満洲人が発展する為の基礎を築いていた。
1619年、ヌルハチサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に至った。


その子のホンタイジ(皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と内モンゴルを征服し、
1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元(ゲン)
の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽を譲られ大清皇帝として
即位するとともに、女真の民族名を満洲に改めた


尚、この満洲という民族名は文殊菩薩に由来していると言われており、

後金国の段階から満洲王朝はラマ教を保護していた。



図2.満州国地図アルカディアを求めて-満州国地図

 注意が必要だ。---日本が平和国家を目指すなら模範になる考え方だ!!


 異民族である満州族の支配を漢民族が比較的容易に受け入れた背景には、
清が武力によって明の王室に取って替わったとの姿勢をとらず
明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐し
自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備するなど
あくまで明の後を継いだことを前面に出していた事が考えられる。利口なのだ。



図3. 清国の最盛期アルカディアを求めて-清国の最盛期

  18世紀の清
清が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典』(こうきじてん

とは中国の漢字字典)、雍正帝の古今図書集成乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。

一方で満洲族の髪型である辮髪を漢族にも強制し、文字の獄や禁書の制定を繰り返して
異民族支配に反抗する人々を徹底的に弾圧した。甘くないのだよ。



図4.清国末期アルカディアを求めて-清国末期

 当時の支那=清国は、阿片戦争(1839年)・アロー戦争(1857-1860)・日清戦争(1894-1895)

での相次ぐ敗戦により、西欧列強及び日本による領土分割(完全な分離併合ではなく、
租借・租界設置・特恵措置の獲得という形式)が為された。


 満州をロシア、山東半島をドイツ、長江流域を英国、福建省を日本、広州周辺地域をフランス

といった具合に既に列強による勢力圏が確定されていた。

そのような状況下で出されたのが米国の「門戸開放通牒」であった訳だ。米国はずる賢い


そもそも、この時代=帝国主義時代は、強国(列強)が弱小国を併合、植民地化することは
「文明国の責務であり正義である」とされていたご時世なのだ


満州族は日本と関係が深いので、つい熱くなって脱線した。ゴメン。m(u_u)m

平和的な優秀な満州族を、残り1回で述べて置きたい