おはようございます。晴れの日々が続いています。車内から見る青空の眩しさこそ、陽春の最盛期の証しなのでしょうね。
さて、大多喜駅から高校の裏手付近(学校敷地内に門らしきものがあるのを見かけた)を歩き、小高い丘を登りますと、大多喜城が見えて参ります。
大多喜城は、現在の千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけて存在した平山城タイプのお城。
初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていたそうです。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人であった本多忠勝に上総国に10万石を与えたそうです。
これが大多喜藩の起源であるそうです。
忠勝の武功 については、下記のとおり。
1 姉川の戦いで劣勢ながら正面突破を敢 行した。
2 一言坂の戦いで殿を務め、敵中突破し逃走。家康の撤退を補佐した。
3 三方ヶ原、長篠の戦いに参戦。
4 本能寺の変の際、自害しようとする家康を引きとめ、「伊賀越え」を成功させる。
5 小牧・長久手の戦いでは500の軍勢を率いて8万の大軍と対峙した。
6 関ヶ原合戦では500程度の兵で縦横無尽に駆け回り90以上の兵を討ち取った。
忠勝は歴戦の勇士で、五十七回の戦に参戦したが、かすり傷一つ負わなかったと言われています。
武田家臣小杉左近からは「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と、羽柴秀吉からは「東国一の勇士」と、織田信長には「花実兼備の勇士」と称賛されています。
駅の記念撮影像の前で遊びに来ていたらしき中学生たちが、「忠勝って無双OROCHIとか戦国BASARAで最強キャラじゃん!」と言ってたのですが、ゲームのことは、よく分からないのですが、中学生達には大人気であることが分かりました(笑)
それでは、今日も一日、頑張りましょうね。
さて、大多喜駅から高校の裏手付近(学校敷地内に門らしきものがあるのを見かけた)を歩き、小高い丘を登りますと、大多喜城が見えて参ります。
大多喜城は、現在の千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけて存在した平山城タイプのお城。
初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていたそうです。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人であった本多忠勝に上総国に10万石を与えたそうです。
これが大多喜藩の起源であるそうです。
忠勝の武功 については、下記のとおり。
1 姉川の戦いで劣勢ながら正面突破を敢 行した。
2 一言坂の戦いで殿を務め、敵中突破し逃走。家康の撤退を補佐した。
3 三方ヶ原、長篠の戦いに参戦。
4 本能寺の変の際、自害しようとする家康を引きとめ、「伊賀越え」を成功させる。
5 小牧・長久手の戦いでは500の軍勢を率いて8万の大軍と対峙した。
6 関ヶ原合戦では500程度の兵で縦横無尽に駆け回り90以上の兵を討ち取った。
忠勝は歴戦の勇士で、五十七回の戦に参戦したが、かすり傷一つ負わなかったと言われています。
武田家臣小杉左近からは「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と、羽柴秀吉からは「東国一の勇士」と、織田信長には「花実兼備の勇士」と称賛されています。
駅の記念撮影像の前で遊びに来ていたらしき中学生たちが、「忠勝って無双OROCHIとか戦国BASARAで最強キャラじゃん!」と言ってたのですが、ゲームのことは、よく分からないのですが、中学生達には大人気であることが分かりました(笑)
それでは、今日も一日、頑張りましょうね。