身内の葬儀など一生に何度も経験するものではありません。どんなに覚悟をしていても、いざとなるとうろたえてしまいます。

 

そこで、いつか、どなたかに役立っていただけたらと、まだ記憶が薄れないうちに、亡くなってからの悲しくもあわただしい日々について書いておこうと思います。

 

 

冷たくなっていた母を前に、まず電話をしたのは訪問医だった。

訪問医は、少しずつ弱ってきている母を見て、もうそれほど長くはないようなことをおっしゃっていた。

1時間後くらいに、いつも変わらず穏やかな女の看護師の方といっしょに来てくださった。

瞳孔などを調べ、私が朝対面した時間を訊かれ、死亡時間を決め、診断書には「老衰」と書かれた。

ペースメーカーが入った心臓も、各臓器もそれなりに弱ってはいたけれど、薬や機械で生かされることもなく、自然に消えるように逝った。つまり天寿を全うした、ということなのだろう。

こうして自宅で看取られるケースは、今少ないらしい。

 

 

ケアマネさんにも、すぐに電話した。日曜日で、出かけられていたが、急いでかけつけてくださった。

 

 

家族にも電話をしたので、来られる者からどんどん集まってきた。

 

 

そして、葬儀屋さんもかけつけた。

この葬儀屋さんは、後で紹介しようと思うが、家族が知り合って、その仕事ぶりと人柄に惹かれた方であり、私達もその穏やかな人柄に安心してお任せできて、その点気持ちが楽だった。

 

 

家族の前で、私を中心に葬儀のことが決められていった。まず、一番初めにしなければいけないことは葬祭場を決めることだった。

近場には公営の葬祭場がない。

民営であるため、値段は高かった。

 

比較的行きやすい公営の葬祭場を押さえてもらった。

式場の値段は大きい部屋が150名まで(二階の待合室80名)で41万ちょっと。小さい部屋が50名まで(二階の待合室36名)で25万弱。

すぐに小さい方の部屋をとってもらったが、最短で6日後の土曜日になった。

この斎場の良い所は、火葬場が併設されていて、よくあるバスなどでの移動をしなくてもいい点だ。

火葬には部屋のランクがあり、上のランクだと個室になるが、ごく普通の(それでも、最上等と名がつく)何組も一緒になる部屋を選んだ。費用は59000円。

 

・・・と、ここまで、葬祭場だけで、費用は31万近くになる。

 

 

葬儀について、そして費用の選択は、あまり悩まずに決めていかれた。

普通、病院で亡くなると、ご遺体を自宅まで運ぶ費用や、安置費用、などいろいろかかるが、自宅で亡くなったので、それらがかからなかった。

祭壇の花をどうするか。遺影はどれに?菩提寺の有無。戒名は?

葬儀社の方が穏やかに、控えめに、説明してくれた。

 

今は通夜、告別式、と2日間行わずに「1日葬」が主流だという。

弔問の方も、その方が楽だという。

それで、10時開式の「お別れ会」形式にすることにした。

(この「お別れ会」形式が実に良かった。)

 

 

その後、別の方(女の方)が重そうな箱を抱えて来てくれた。中には遺体を冷やしておく器械が入っていた。

遺体を保つために、よく知っているのはドライアイスだが、それでは皮膚にダメージがあるという。それに、費用も1日8000円くらいかかるという。

この機械だと、布団乾燥機のようなしくみで冷風を送るので、遺体にダメージがない。また、費用はわずかな電気代だけということになる。

葬祭場の日取りの関係で、亡くなった日から6日間もそのままベッドに寝ていたわけだが、亡くなった時の眠っているような母のままだった。

 

 

亡くなってから葬儀まで何日もあったわけだが、それは気持ちの余裕にもなった。

母はもと教師であったが、歳をとってもずっと卒業生や父兄の方々と交流があり、お知らせする方達もたくさんだった。

お知らせした方達の中で、葬儀に出られないのでと、我が家に弔問に来てくださる方も何組もいらした。

 

 

葬儀の前日の昼過ぎ、とうとう母はストレッチャーに乗せられて、式場に運ばれた。

私達も後から行ってみると、母はすでに身体を清められて、用意した服に着替えさせていただいていた。

旅立ちの服は、迷ったが、薄紫色のセーターに、生前好んで着ていたように思う紫色のベストとロングスカートの組み合わせにした。前々日に洗ってアイロンをかけておいたものだった。

母はおしゃれな人で、夥しい衣装を持っていた。

 

ちょうどお化粧をしてくださっているところだったが、私は生前の顔と違ってしまわないように、薄化粧をお願いしておいたので、クリームなどを薄く塗った程度にしてくれた。

一緒に焼いていただこうと持っていったウィッグは、つけてくださっていた。

 

それから遺体は丁寧に棺に入れられた。

持っていったお気に入りの「しゃべるぬいぐるみ」や、お菓子、そして発刊を楽しみにしていて見ることができなかった「かいごまる」一冊も棺に入れた。

とうとう母が違う所に行ってしまう実感が襲った。

 

部屋では花屋さんがふたり、忙しく動いていて、祭壇にも、会場の中央に置かれた棺のまわりにも、ふんだんに花を飾ってくださっていた。斎場というよりも、ピンクに染まるお花畑のような景色だった。

 

手伝ってくれている息子が、持っていった写真などを飾り、受付の近くでは返礼品を袋に入れて用意している方がいた。

葬祭場の準備は、こうして、いろんな方達の手で粛々と行われているのだと、初めて知った。

 

 

斎場から家に戻ると、ベッドだけが寂しく残っていた。

冷たくなっても、何日もそこに母が寝ていたので、本当に寂しい光景だった。

夜遅くなって、私は「お別れ会」で読み上げる原稿を書いた。

書きながら、涙がまた止まらなくなった。

 

当日は、見事に晴れた暖かい日になった。

家族は一時間前の9時に集まって、簡単にリハーサルのようなものをした。

娘の婿たちが、受付の準備をしてくれた。

 

葬儀社の方は、いつも変わらず穏やかな顔で、他所の葬儀で何度も見てきた、いかにも営業という事務的な態度とは一味も二味も違って、温かく信頼できる感じだった。

 

司会進行役のきれいな女の方が到着。

少し早めにいらした弔問の方達は、受付を済ますとひとまず二階の待合室へ。

受付では、この「かいごまる」も1冊ずつとっていただいた。

 

式はお坊様の読経も焼香もなく、シンプルで、かつ温かいもので、1時間があっという間に過ぎた。

音楽が流れる中、司会の方が故人の簡単な略歴を紹介して、その後喪主である私が話をさせてもらった。(内容の一部は『介護の一コマ』に)ここでも涙が出てしまった。

弔問にきてくださっていた昔の生徒さんのひとりが、突然手をあげて、母の話をしてくださった。

母の最初の頃の生徒さんなので、母と10歳くらいしか違わない。遠くから式に出るために来てくださった。母も幸せ者だ。

 

その後、家族、親族、知人、友人が、一本ずつカーネーションの花を献花台に置いて、棺の周りを歩いて個人の顔をガラス窓越しに拝んだ。

小さな孫たちは、私の涙につられたのか、号泣しながらお花を捧げ、号泣しながら棺の周りを歩いた。

そして最後は皆で棺に花入れをした。お花はふんだんにあったので、何層にも何層にも、さまざまなお花が入れられた。

(おかあさん、こんなにたくさんのお花に包まれたよ)

 

式はそうやって終わった。

ほんとうに温かい式だった。

 

それから、歩いて併設されている火葬場に向かった。

帰られる方もたくさんいらしたが、収骨までいてくださった方もたくさんいらした。

同じ部屋では何組かが火葬されていたが、特に気にはならなかった。

 

棺がお釜の中に入っていく瞬間は、幾度となく見てきたが、ほんとうに最後、「お別れの時」だった。

お釜の前で、葬儀社のお坊様が読経をしてくださったが、朗々とした声が心に沁みて、ありがたかった。

 

 

待合室に戻って、お茶を飲みながら、40分くらいだろうか。また火葬場に向かった。

 

台に乗って出てきた母は、もはや土に帰ろうとしている姿だった。係の方の説明の後、皆で骨を箸で拾って壺の中に収めた。

とうとう、母はこんな形になって、こんなに小さく冷たい入れ物に収められて家に帰ることになるのだ。

あまりに早い展開で、それが現実のことだとは思えなかった。

 

 

家に帰ると、さっきまで葬儀場で穏やかに対応してくださっていた葬儀社の方が、息子と一緒に祭壇を用意してくれていた。豪華なお花も、写真も飾られて、白布に包まれた母の遺骨が載せられた。

(おかあさん、帰ってきたよ・・・)

遺影は7年くらい前の、いかにも教師という感じの、上品に写っている写真だ。

晩年の、100歳にも見えた顔とはまるで違う。

ずっとそこで寝起きしていた母が、もういない。もう、帰ってくることはない。

受け入れなければならない事実だった。

 

<注>葬儀社さんには大変お世話になりました。