『新しい自分になる』~TO DOとTO BE(1)~
こんにちは。カウンセリングサービス
のみずがきひろみ
です。
岡崎陽子
と交替で水曜日のキャリアアップのテーマを担当しています。
前回(1月27日UP)、「やる気がでない」「面白くない」は「まだなったことのない『私』になることを求められているサイン」と書いたところ、「まだなったことのない『私』」「新しい私」って何?というご質問をいただきました。
ありがとうございます!
3回にわたって、そのあたりを少し詳しくお話させてください。
私は、「新しい自分になる」というテーマを考えるとき、「やること(TO DO)」と「あり方(TO BE)」の二つの角度から自分を見直してみることをお勧めします。
「変化」を求められているのは、「やること(TO DO)」なのでしょうか?
それとも、あなたの「あり方(TO BE)」なのでしょうか?
「やること(TO DO)」の変化にしても、「何(WHAT)」をやるか、という問いと「いかに(HOW)」やるかという問いがあります。
あなたの場合はどちらでしょう?
今回は、「やること(TO DO)」、特に、「何を(WHAT)」やるか、について考えてみます。
「自分はいったい何をやりたいのだろう?」
「自分は本当にこの仕事に向いているのだろうか?」
「自分の天職って何だろう?」
これは、「何(WHAT)」をやるべき(やりたい)か、という問いかけです。
この問いのたて方の難しさ、というのは、多くの場合、やってみないとわからないところにあります。最初から、どんぴしゃと自分の才能がどこにあるかわかっている人の方がむしろ少ないでしょう。
才能を探す、天職を見つける、というとき、多くは、やりながら、走りながら、「やっぱり自分はコレだな」といって見つけていくものではないかと私は感じています。
自分がやっているカウンセラーという仕事も、今でこそ「天職かも」って思っていますが、それが最初からすんなりと見つかったわけではありません。
しかも、その仕事が自分の「好きなもの」のカテゴリーに入っていたか、というと、そうでもないのです。
むしろ、人間関係って苦手だなとどこかで感じていたし、結婚にも失敗してしまってパートナーシップも育めない、お母さんとしてもいまイチだなぁ、という、自分の苦手意識や劣等感と向き合った結果、40歳半ばもすぎて「職業」となっているので、自分が何を「天職だ」と思えるか、というのはなかなかわからないものだなぁ、と思います。
早咲きの才能もあれば、遅咲きの才能もあります。
あれこれやった。
たどり着いてみたら、これまで自分が流した汗や涙の全てが役に立つということがわかった。
最初からそれをめざしたわけではないけれど、でも、結果的にそうなった。
だから、「天職かもしれない」と思える。
私の場合は、いろいろとやってみたからこそ、ここにたどり着いたよ、というケースです。
それが自分の経験だから、私は、「何をやるべきか(WHAT)」という問いに対しては、
「まずは何でもいいよ、興味のあることなら」
というのが、気の抜けたようでもありますが、一つの答えになると思っています。
ちょっとでも興味をもてることがあったら、まずは一所懸命にやってみて下さい。どこに「天職」への扉があるかは、考えていてもわかりません。でも、走り出してみると、自分がどこの何にこだわっているのかが見えてきます。その「こだわり」に導かれるように、次の扉へ、次の扉へ、と道が姿を現すように感じられます。
実際、「何をやるべきか(WHAT)」が人生のテーマとしてつきつけられるときには、大波が押し寄せるかのようにほかにもいろんなことが起きることがあります。何らかの家族の事情がこれまでの働き方を許さなくなる、病気や離婚、リストラや倒産、契約破棄など、抗いがたい強い力で「変わる」というより、「変わらざるをえなくなる」という経験になる方が多いようです。
嵐の中で、それでも大切にしたかったもの、「こだわり」が、あなたの本当にやりたいことのヒントをくれたりするものです。
M・ジャクソンが、自分の子供時代が奪われたと感じたからこそ、無邪気な子供の笑顔にこだわったように。あるいは、自分が現実から逃避したいと願ったからこそ、みんながいっとき現実を忘れられるようなパフォーマンスにこだわったように。
あなたが心底欲しくて、手に入れられなかったものの中に、あなたの与えられるもの、作れるものがあるかもしれません。
あなたの助けたい、守りたい、という気持ちの先に、「できること」が見えてくるかもしれません。
是非、そんな心の声に耳を澄ましてくださいね。
「天職」は英語でCALLINGとも言います。
それは、神様からの「呼び出し」という意味です。
一所懸命に生きていると、神様から呼ばれて、それをせざるをえなくなる。
そういうものだという考え方なのでしょう。
でも、そう言われてみると、そんなものかもしれないと腑に落ちるところがあります。
「自分はこれをするために生まれてきたんだ」という深い納得感は、熟慮の末の決断や観念という以上に体感に近いものだ、と思うからです。
「呼び出し」はいつ来るかわからない。
だからこそ、フットワークは軽くしておきたいですね。
次回は、「やり方(HOW)」を変える、ということについて考えてみます。
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