こんばんは。テツジンです。

ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

昨日、紹介した原正市さんは、点と点――北海道と黒竜江省――の交流を結び、やがて面と面――日本と中国――の交流まで築いた立役者の一人であることは、誰も疑わないだろう。

米(稲作)という食文化を通して、日中間における点と点の交流を、面と面の交流まで、発展させた原正市さんの功績に匹敵する方は、もう一人います。その方は、稲作技術者の藤原長作(フジワラ チョウサク)さんです。

私が藤原長作さんのお名前を知ったのは、日本ではなく、黒竜江省方正県(ほうまさけん)でした。藤原長作さんの功績と偉大さを知るためには、どうしても重い歴史を少し触れなければなりません。お許しください。

方正県と日本との絆は、1930年代にさかのぼります。方正県は今日、黒竜江省の一部ですが、1945年までは日本が「満洲国」に築いた傀儡(かいらい)国家の領域でした。当時、日本は中国東北地域に約38万人の移民を送り込みました。

そのうち、長野県からの移民が一番多かったです。たとえば、長野県下伊那郡泰阜村(やすおかむら)から分村移民で多くの人々を送り出しました。

 

1945年8月、ソ連軍の侵攻で、泰阜村が送り出した移民団をはじめ、他の地域から送出した移民団の約1万人が逃避行の末に方正県に集結し、寒さや病気、飢えで数千人が死亡しました。集団自決した人もいました。生き残った孤児や婦人は方正県民に引き取られました。

そのため、方正県は戦後に中国では残留孤児、残留婦人、を引き取っていた一番多い地域となっています。

1962年、方正県の農民に嫁入りした残留婦人の松田千尾さんが、荒地を開墾した時には大量に日本人移民の白骨死体を掘り出されたため、埋葬するという請求を政府に提出しました。    

そのことを知った周恩来総理が自ら指導して方正県周辺にばらばらに散り落ちた白骨の収集が行い、決まっている場所に埋葬しました。1963年5月、中国政府は方正県伊漢通郷吉興村では日本人公墓を修造しました。その場所が後年、「中日友好園林」になりました。中国では、方正県に「中日友好園林」(日本人公墓)が建てられることはよく知られています。

2008年3月、私は一時帰国する際に、「中日友好園林」を訪ねました。方正県は故郷のハルビンから東に約200キロ離れたところにあります。

「中日友好園林」のなかにいくつかの記念碑が立っていました。残留孤児と呼ばれる日本人移民の子供を引き取った養父母を顕彰する石碑の隣に藤原さんの功績をたたえる記念碑がっそりと立っていました。当時、初めて見た名前でした。

 

                「中日友好園林」内に建立された藤原長作氏の記念碑

 

そのきっかけで、藤原長作さんについて調べはじめました。

藤原長作(1912年~1998年)さんは、岩手県沢内村出身。1980年6月、日中友好協会が組織した農業視察団の一員として初めて方正県を訪問しました。

藤原長作さんは、「中日友好園林」を訪ねた後、日本人公墓が建てられた経緯に感激し、自ら技術指導を申し出て、この地で長期間に渡って稲作の技術指導を行いました。岩手県の寒村でコメ作りに取り組んだ藤原さんは、岩手県で確立した寒冷地の栽培法を持ち込みました。

1981年~1998年、70歳を超えた藤原さんは、日中友好事業に身をささげ、自費で方正県を6回訪問し、無償で寒地水稲乾育栽培技術を伝授し、方正県だけではなく黒竜江省全体、そして中国の水稲生産技術革新にも貢献をし、方正県と日本との交流の成功モデルとなりました。

かつて方正県は、米の収穫不足に悩み、貧しい農村地域でした。今では海外まで輸出する米作り地域となりました。

藤原長作さんは、1983年には方正県から栄誉公民の称号を、1984年には黒竜江省から初の科学技術賞を贈られ、「人民日報」からは「水稲王」の称号を授与されました。

1998年8月、藤原長作さんが逝去されました。ご本人の遺志に沿って、方正県の日本人公墓と故郷の岩手県に納骨しました。藤原長作さんは現在でも、多くの中国の人々から「水稲王」と慕われ、語り継がれています。

一日でもはやくコロナ禍が終息することを願うばかりです。旅が再開できるようになったら、もう一度方正県の「中日友好園林」を訪ねて、藤原長作さんの記念碑の前で手を合わせたい。

 

参考文献

・<満洲泰阜分村ー七〇年の歴史と記憶>編集委員会編『満洲泰阜分村ーー七〇年の歴史と記憶』不二出版、2007年。

・郭相声・曹松先編著『方正僑郷史話』方正県文史資料弁公室・方正県僑郷歴史文化研究学会、2009年。