なんとなくイヤ、はだめなのか | 写真家yukko*のVIVIDにゅ~す!

写真家yukko*のVIVIDにゅ~す!

写真家でファッションコンサルタントのyukko*です。

わたしは、人は幸せでいるために生きていると思っています。
お洋服や写真を通じて自分を見つけ、あなたの幸せをVIVID(イキイキと鮮やかに)に生きようぜ♪

こんにちはyukko*です。

 

日々のんびりと過ごすようになって、

「なにもしない」ことがこんなに豊かだったか、と

あらためてびっくりする日々です。

 

今朝は玉ねぎのお味噌汁を作って、

寒い中それをすすって飲んだ時、

玉ねぎの甘さと落とし入れた玉子と味噌のハーモニーに

心がじーんとしました。

 

美味しいもの、あったかいものは本当に心が豊かになるね。

 

さて、今日はちょっとほよほよと思ったことを。

 

先日どこかのSNSで、

ヴィーガン(完全菜食主義者)の人を揶揄している投稿を見ました。

ツイッターだったかな。

 

その投稿していた内容はたしか

ヴィーガンの人たちは動物がかわいそうといいつつ

矛盾する行動をたくさんとっているんではないか、という感じだったと記憶しているんですが

(例えばシルクの衣類を持っているとかね)

 

なんというか、世の中に「ヴィーガン」という言葉が普及してきているとともに

このあたりの議論をよく見かけるようになったように思うのだけど、

(ヴィーガン側の人たちで主張している人も、ヴィーガンが矛盾ではないかという人側からも)

 

議論になってる場合、そのどちらも

なんか「怒ってる」感じがするんですよね。

 

で、もっと見ると、

「これが正しくてこれは間違ってる!」っていうことを双方が言ってるんじゃないかなと。

 

世の中なんとなくそんな空気が強くなっているような感じがします。

 

私の友人にもヴェジタリアンやヴィーガンの人はいるんですが、

前にその理由を尋ねてみたことがありました。

 

「なんか小さい頃からお肉を食べたくなかったから」

「お肉を食べない方が体調がいいから」

「動物がかわいそうだから」

 

という感じでした。

 

なるほどね〜。

 

「なんとなく、そうしたいから」。

「なんとなく、そうしたくないから」。

 

とてもよくわかる。

 

だけど今の世の中って、

その「なんとなく」っていうのじゃダメ!っていう空気が多くある気がして。

 

ちゃんとダメな理由を突きつけて

間違ってることを証明しなきゃ、みたいな。

 

私の個人的な意見を言いますと、もうざっくり

どの行動だって、どんな理由でもいいんだと思うんです。

 

「自分がそう感じたから。」

 

究極それでいいんじゃないかなと。

 

そんなことを言うとまた、「これこれこんな場合はどうするんだ!」っていう人が現れそうですけど(笑、

 

この数年トライしている「心に従うこと」をやってみて、

多分それでいいんだな、と確信しつつあります。

 

生きる自分なりの哲学っていうかそういうのって誰でもあると思うし

その土台になる考えみたいなものによって違うとは思うけど、

そもそもその土台も

 

私たちは学校や社会で

「こうあるべきだ」ってものを教え込まれすぎて

 

しかも、いつも「正解」を探すようにと教え込まれて

そういう考えのもと

『土台っぽいもの』が作られてしまって

(これは行動を制限する「枠」だと私は感じている)

 

心の言うことよりそっちで動いてしまってきているから

 

より正しそうな理由を突きつけられると

あれ、そうなのかな、そっちが正しいのかな、となり

まま心のいうことを無視して生きてきてしまっていたりしていて。

 

心がイヤだというなら

 

学校にだって行かなくたっていいし

食べたくないものは食べなくていいんじゃないかなあ、と

私は思っています。

 

最初は偏りが出るかもしれないけど、

ちゃんと心の言うことを聞いていけば、

自ずと戻るところに戻っていけると思います。

 

子供の頃嫌いで食べられなかったものが

大人になってその美味しさがわかるようになるとか、そういう感じなんじゃないかな。

 

いまイヤなら

それを無理してやることはない。

 

頭の言うこと、世間の考え(っぽいこと)を自分の中でちょっと黙らせて

すこし立ち止まって

 

心はなんて言っているかな?って気持ちを向けてみるだけで、

いろんなことが変わってくるんじゃないかなと思います。