今日の一句(7/13(木))


日が延びて

          夏近きかな

                      蝉の声


今日、透析に行く前にキリギリスの鳴き声が聞こえたよ。ニイニイゼミは7/10(月)から聞こえる。去年よりちょっと遅いね。たぶん15日頃、梅雨明けだよ。


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昨日は、期末考査の問題の採点と成績処理の疲れから爆睡してしまった。


ひとりだけ赤点が出てしまった。本当はノート提出でおわらせようと思ったんだけど、ノートもちゃんと提出しているので、気まぐれで7/21(金)・24(月)・25(火)の三日間補習をやることにしてしまった。


補習なんて、もう何十年ぶりだろう。若い頃は赤点補習ではなく、進学補習をやったことがあるけど、赤点で補習なんかやったことないよ。第一に意味があるのかが疑問だよね。


赤点は「日本史研究」だけど、幕末まで授業でやったから、「明治維新」の予習かな?


今年の生徒は「日本史A」の方だけど、今までの生徒となんか違うんだよね。別に受験で必要ではないんだけど、ちゃんと授業を聞いて、ノートも板書していることだけを書き写すだけじゃなく、メモを取ったり、イラストを入れてみたり、刀剣マニアがいて、刀剣についてノートに書いたり、試験前に質問に来たりする生徒がいるんだよね。


今までは、テスト前に対策プリントを出さないと勉強やらなかったり、湖北や沼高との違いは湖北・沼高は対策プリントを出しても赤点続出だった。柏陵との違いは柏陵は対策プリントを出すとちゃんと点が取れるところだよね。それだけずる賢いというかセコイのが今までの柏陵だった。


ところが今年は対策プリントは出していない。それなのに点数がいいの。


中間は様子見に簡単だったけど、期末は少し難しくしたつもりだった。「日本史研究」はちょうどうまくいったけど、ちょっとしたミスで記号選択をなしにした。そうしたら、案の定悪くて、中間期末を平均するとちょうど平均点が65~55点に入るぐらいだった。でも赤点が一人出てしまった。いつもならもっと赤点がいて、課題プリント提出で終わらせるところなんだけど、今年は気まぐれで補習をやることにした。


「日本史A」は、F・I組は人数が少なくてそれでだいたい帳尻があったんだけど、G・H組は42人クラスなの。普通は半数はやらないんだけど、それで帳尻が合うんだけど、今年は中間期末ともにできて、平均80点近くなんだよ。舐めて記号問題を出したのが失敗だったよ。おかげで、中間も期末も平均点を65点になるように調節した。


だからテストでいい点を取ってもそのまま一学期の成績には反映されない。要するにインフレ的点数だったんだね。強引にデノミですよ。みんな一律に平均点を65点に下げたよ。それでノート点とか平常点で評価したものには加点した。


だから、おおむね平均点は65点ぐらいだよ。


日本史で受験するわけでもなく関係授業内容で質問に来る生徒なんて始めてだよ。



こういう生徒がいると教師として嬉しいね。


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今日は「ナイスの日」なんだって?

「7(ナ)1(イ)3(ス)」の語呂合わせが由来とされ、ナイスなこと、素敵なことを見つける日だそうだよ。


2006年のアニメ映画『時を駆ける少女』でもテレビのアナウンサーが「7月13日はナイスの日」と紹介しています。(知らなかったよ。YouTubeで確認してしまった)


つまらない語呂合わせだなぁ。


『時を駆ける少女』はアニメ版より大林宣彦監督の原田知世が主演した映画が絶品です。いわゆる「尾道三部作」ね。DVDも持ってます。


日本の最近のアニメってなんか絵が似通っていて好きじゃない。大友克洋や神海 誠みたいな絵が好きじゃないんだよね。漫画家が描いた絵じゃなくて、アニメーターが描いた絵って感じ。


漫画家の個性が感じられない。昔のマンガみたいにキャラが立っていないんだよね。


みんなコンピューター・グラフィックみたいなの。


そう言えば、ベルが「悪魔くん」の実写版を知らないっていうんだよね。1966年の作品だもの知るわけないか?今でも呪文とか主題歌とか覚えているよ。僕が沼高で作った芝居『オフ・ライン』の中でチャージが演じる「エビル」が唱えるよ。オカリナのことを「ソロモンの笛」と呼んでいたっけ?だからオカリナはずっと「ソロモンの笛」だと思っていた。オカリナという名前を知ったのは高校ぐらいの時かな?ちなみに「悪魔くん」の原作は水木しげるだよ。藤子不二雄じゃないよ。


ナイスの指サインは中東やギリシャでは下品・侮辱の意味なんだって。だから使ってはいけないサインなんだよ。知ってた?


去年のブログはこちらをご覧下さい。⬇




《今日の質問》


最近の「ナイス!」な出来事教えて!


そりゃあ、ようやくテストが終わったことだよ。


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透析をやっていたら、文化祭のやり方に教師が反対して校長に抗議しに行く夢を見た。それを「スワンドル運動」と言っていたのだけれど、調べたらそんな言葉はなかった。


老いても反骨精神は変わらないものなんだね。今の先生たちは管理職に反発することなんてないから、そんな不満が夢で現れたんだろうね。


《もーりんの趣味の歴史講座》


今日は次の7項目を選んでみました。


1221(承久3)年7月13日、承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇隠岐に流されました。

(▼後鳥羽上皇)
(ウィキペディアより)

承久の乱は、京都の後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権・北条義時追討を名目にして、全国の武士に挙兵を命じた戦乱です。しかし、真意は鎌倉幕府打倒にありました。


成立間もない鎌倉幕府をまだ体制が固まっていないうちに打倒して、京都の朝廷に権力を取り戻そうというのが狙いでした。


鎌倉幕府方にも動揺があり、特に京都に在住していた有力御家人・三浦氏の一部や京都在住の御家人は上皇方に加勢しました。幕府内部でも北条氏と三浦氏は対立があったのです。


それに、朝廷に弓引くことにためらいもありました。


それに対し、頼朝夫人の北条政子が御家人を集めて、頼朝の恩は「山よりも高く、海よりも深い」と演説し、「現在の御家人の社会的地位を得ることができたのは、ひとえに頼朝の恩である。その恩を忘れた者は鎌倉を去れ」と呼び掛け、これは「主上の謀反」であるとして京都へ進撃することを促します。

こうして、鎌倉幕府軍は三手に分かれて京都を目指しました。

(▼鎌倉幕府軍の進撃路)
(ウィキペディアより)

その結果、幕府方の勝利に終わり、首謀者の後鳥羽・順徳・土御門三上皇は流罪となりました。上皇方の領地は没収され、新たに関東の御家人に与えられました。これを承久新補地頭と言います。

この内乱で幕府と朝廷の立場は逆転し、幕府の優位が確定しました。

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1575()年7月13日、第一次木津川口海戦石山本願寺を包囲していた織田信長軍は毛利方の村上水軍に敗れました。この結果、毛利(村上)水軍は石山本願寺に兵糧を運び入れることに成功します。

(▼石山本願寺と木津川口)
(伊予水軍物語より)

(▼第一次木津川口海戦の想像図)
(伊予水軍物語より)

石山本願寺は、将軍・足利義明の呼び掛けに応じて、1570(元亀元)年に織田信長に対して反旗を翻します。石山本願寺は陸側を川や水路で囲まれた難攻不落の要塞でした。織田信長は陸側を完全に包囲し、兵糧攻めにしようとしました。

しかし、海上の封鎖は難しく、毛利水軍は海上から石山本願寺に物資を輸送しました。毛利(村上)水軍の力は、信長の水軍を圧倒していました。

そこで信長は、紀伊半島の九鬼嘉隆に巨大な大砲を装備した鉄甲船のの建造を命じました。

(▼九鬼嘉隆)
(ウィキペディアより)

(▼信長が九鬼嘉隆に建造を命じたという鉄甲船の想像図)

(みんカラより)

1578(天正6)年11月6日、第二次木津川口海戦で毛利(村上)水軍を破り、制海権を握りました。

(▼第二次木津川口海戦の想像図)
(伊予水軍物語より)

この結果、1580(天正8)年、石山本願寺の法主・顕如は朝廷の仲介を受け入れるという形で事実上の降伏をしました。


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1590(天正18)年7月13日、小田原征伐を終えた豊臣秀吉徳川家康に駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五国から関東八か国への国替えを命じました。


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1596(文祿5)年7月13日、伏見大地震が起こりました。この地震で建設中の伏見城が倒壊しました。

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1615(元和元)年7月13日、後水尾天皇の即位にともない、「元和」(げんな)に改元しました。

同年6月12日に大坂夏の陣で豊臣秀頼を滅ぼした徳川家康は、ようやく戦国の世が終わったことを「元和偃武」(げんなえんぶ)と呼びました。

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