blogを書けと言われたので「禍津日神」の話。
禍津日神――マガツヒノカミ。
字面だけだと、禍々しい神様を思わせます。
この神様、古事記では〈黄泉国から戻った伊邪那岐命が、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で穢れを御祓ぐ場面〉で「八十禍津日神」「大禍津日神」の名で登場します。 す。
八十禍津日神、大禍津日神、共に厄災の神とされています。
八十は「多い、沢山」ですし「大」はそのままの意味でしょう。
要するに、沢山の災厄の神と大災厄の神、です。
八十は耶蘇とはきっと関係ないはず……多分(怒られるぞ)。 っていうか、いろいろな点で違うと思います。はい。
問題はそのような神に「日」の文字が入っていることでしょうか。
ところがこれは「ヒ」という音が大事なようです。
神霊(ムスヒ)の意味で「ヒ」を使った、とか(日本書紀でも該当する神の名に、日が入っています)。
でも、あえて日を使った意味も何かありそうです。
二柱の災厄の神が成った後、対応するように三柱の神が成ります。
「神直毘神 大直毘神 伊豆能売神」
まず神直毘神と大直毘神は、汚れを祓い、禍(災い)を直す神。
禍=マガで曲。曲に対するは直……とか。
伊豆能売神は古事記にのみ登場する女神ですが、諸説あるようです。
読みはイヅノメノカミなのですが、イツノメノカミで御祓の巫女や清めの女神とも言われています。
祝詞において、直毘神の後に出てくる「大宮売命」と同一の存在とされているとも。
この祝詞の中で、大宮売命による「言直し和し」の働きが称えられていると言います。
うん? 言直し和し?
言直しとは〈言葉の力によって、悪いものを良いものへ直す〉です。
和しは〈和やかである、柔らかい、荒々しくない〉になります。
禍(厄災)を言葉の力で良きものへ転じつつ、和やかなものへ変える神様なのでしょう。
禍津日神と直毘神。
古事記では厄災神の登場に続き、祓いの神と言葉が記されます。
災禍を良いものへ転じさせている、と言えるでしょうか。
これは古事記のもつ、呪術的側面でもあると思います。
神代の古事記を読む限り、ここ以外にも厄災・災禍が起こったとき、そこから転じるように神々や神器が登場する展開になります。
その流れは「言祝の呪」を表しているのではないかと感じるのです。
禍が起こっても、きっと福へ転じる。
そんな古代の人々の思いと、日本の神々が持つ懐の深さを感じざるを得ません。
因みに、禍津日神は悪神ではないぞよ、って説もあります。
直毘神と禍津日神は表裏一体。
直毘神は善事褒め、他者へ奨める。禍津日神を悪事を咎める役目だとか。
更に書き加えるなら、禍津日神は「災厄を統べる神。だから祓除神。疫病除け、招福、縁結び、安産の利益あり。言霊信仰に関係する神」なんて言われてますね。
この辺りは、善神・悪神のような二元論的捉え方をしない、という日本の神々らしき融通無碍さが見え隠れしていて面白いです。
結果的に、禍津日神と直毘神の神々の話になりました。
ぶっちゃけますと、細かい部分はすっ飛ばしています。いや、長くなるし。
どちらにせよ「悪い事が起こったこと、起こっていることを短絡的に嘆かず、次にやってくる福を見逃さないように」と思った方が良いと個人的に思います。
そのときは空元気でも構わないので、明るい言葉と行動を心がけるとベターですぞ。
ほら、悪口とか不平不満とか口にしてドンヨリしてるより、気合いで明るく元気に! の方がきっと楽しいことを呼び込みますもの。
ってことで、他の神様を書き出したけれどストップした後、ふと「禍津日神」について書いた方がいいかもー、って感じで手を動かしてみました。
何故か、あっという間に行が埋まっていく展開……。