鹿島茂の読書日記 -2ページ目

鹿島茂の読書日記

鹿島茂公式ブログ。未来過去、読んだ書籍の書評をあげていく予定です。

 すこし本格的に歴史をかじりだしたときに感じたことは、教科書で教えられる「一行歴史」というのは、いったいなんなんだということである。ある歴史的な人物に事件や事象についてわれわれが教科書から与えられたイメージは、実際のそれとえらく違っている。ときには、正反対のことさえある。極端なことをいえば、「教科書的な歴史」とは「偏見の歴史」の別名ではないかと感じることがある。
 たとえば、江戸時代の武士の生活だ。「五公五民」の税制で農民から米を取り上げることを制度的に認められた武士階級は特権階級として農民を搾取しつづけたが、商業経済の進展で生活が華美になったことから借金が増え、最後には何度も徳政令を出して救ってもらうほかなかった、云々。これがわれわれが普通に抱いている武士のイメージである。
 だが、磯田道史の『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』を読むと、たしかに上面はそうだが、そこに至る本当の道筋はかなり違っていることがわかる。
 まず、武士は自分の知行地がどこにあるかさえ知らず、ただ給料の形式として知行を拝領していた。とくに微禄藩士は、「生々しい現実の『土地と人民』を与えられているという感覚を持ちにくかった」。「近世武士にとって領地とは、結局、紙のうえの数字と文字のようなところがある」。明治維新で武士階級が簡単に崩壊したのは、ここにあったのである。
 また武士が貧乏したのは、贅沢をしたからではなく、構造的に貧困化する用になっていたからだ。つまり、お家断絶のための「保険」として養子を確保する必要から、親戚付き合いが濃密となり、その結果、交際費が家計で突出した。また、交際費負担で生じた家計のマイナスを補うために、親戚から借金しなければならなくなるため、親戚付き合いをさせに濃密にしなければならなかった。ひとことでいえば、武士の借金は階級的必然であったのである。
 ドナルド・キーン『明治天皇を語る』は、明治天皇が世界中の君主の中で最も禁欲的(ただし、女性関係を除く)な君主であったことを教えてくれる。皇居での華美を戒めるため改築もせず、衣服も修繕ですませたし、旅行中の苦痛には超人的な忍耐で耐えた。また、人間的な弱さを示すことを恐れて、子供たちには、とくに世継ぎの嘉仁親王(大正天皇)には、親密さをほとんど示さなかった。好きだった臣下は西郷、大久保、伊藤で、嫌いだったのは山県有朋、陸奥宗光、それに乃木希典だった。
 坂本多加雄『新しい福沢諭吉』は、福沢諭吉が社会の仕組みを説明するために使った「独立」と「情愛」、「智恵」と「徳義」が、われわれが想像するのとはちがった、現在の思想水準からしても、相当にユニークな理念であったと主張する。たとえば、福沢は儒教は情愛や徳義に基礎を置いているからダメなんだと批判する。なぜなら、「情愛」を支配理念として受け入れている限り、貸し借りの関係が生まれ、上位者と下位者の差が出てくるから、「同等同権」の「独立」は確保できない。同じように、「徳義」の及ぶ範囲は一家の内に限られるが、「智恵」の働きは広大な範囲に及ぶ。ゆえに、「徳義」に拠る政治よりも、「智恵」による政治のほうが優れている。
 このように、本物の歴史を学ぶことで、自分の教科書的な偏見が崩されていくのを見るのは、シャクだけれど、気持ちがいい。この気持ちの良さが歴史書を読む醍醐味なのである。
武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新― (新潮新書)/新潮社
新しい福沢諭吉 (講談社現代新書)/講談社
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明治天皇を語る (新潮新書)/新潮社
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 神保町に仕事場をもうけたのが去年の四月のこと。さくら通りから一つ入った築四十年のビルの五階だったが、今年の四月からは、すずらん通りに面した、これまた築四十年のビルの三階に引っ越した。
 引っ越しの理由は、同じすずらん通りにある東京堂を書庫にしてしまおうと考えたことである。おかげで、執筆中に「あっ、あの本が必要だ」と思ったときに、すぐに買いにいけるようになった。
 そればかりではない。仕事に飽きると、すずらん通りに出て、東京堂を一回りしてくるが、この特定の目的を持たない本の渉猟というのがまた楽しい。新刊書の棚ではなく、常設の棚も少しづつ動いているのが肌で感じられるからだ。
 とはいえ、楽しみのためにだけやっているかといえば、そうとも限らない。私は、図々しくも「職業的書評家」と名乗っているが、この「職業」にとって、新刊本の書店を循環していることは、アスリートにとっての筋肉トレーニング、日々のランニングに相当するからである。
 つまり、常に新刊に目配りする努力を怠ると、書評家としての眼力が落ちるのである。これは、私が信念にしている「質には量を」という法則から来ている。すなわち、ある程度の量をこなしていないと、質は確保できないということで、常にたくさんの本に接してカンを磨かいていないと、読まずに良書を見いだすことは不可能なのである。
 この点において、インターネットが普及した今日でも、私は断固とした「店頭派」である。本というのはやはり、現物を手に取ってみないかぎりわからない。タイトルから始まって、カバーのセンス、オビの謳い文句、紙質、目次、後書きといちいち検討していかなくては、それが買うに値する本か否かは決定できないのである。人よりは大量に本を買う職業的書評家だろうと、つまらない本、価値のない本に金は使いたくないのだ。
 しかし、こう書くと、私はあなたのような「職業的書評家」ではなく、平凡な一読書家にすぎないので、そのような筋トレ的な書店巡りをしている暇はない。なにかもっとてっとり早い方法はないでしょうか、少なくとも、小説だとかエッセイなどの善し悪しを見抜く方法は、という問いがなされるはずだ。
 こうした問いには、こう答えることにしている。
 本には、ある種の「匂い」があるんです。この「匂い」は、書店に常に足を運んでいないとかぎ分けられない。だから、書店に行く習慣のない人がいきなり、良い本に巡り合うなんてことは無理ですよ。それより、うちでテレビでも見ていたほうがいいんじゃないですか。あなたは本とは無縁の人のようだから。
 そうなのである。世の中の九割の人は本とは無縁の人なのである。本をよく読む人は、日本が百人の村だったとしたら、たったの十人しかいない。それも、本がなければ暮らしていけない人はたったの一人くらいの割合だ。これは統計的に厳然たる事実だ。この十人、あるいは一人が、日本の本を買い支えているのである。マーケッティグ理論には、二割の人が全売上の八割を購入している「二割・八割の法則」というのがあるのだそうだが、本の場合は、一割の人が全体の九割を購入しているのだから「一割・九割」の法則だ。
 ところが、ほとんどの出版社はこの事実を認識していない。とりわけ、最近は不況でやりくりが苦しくなってきて、一発大逆転を狙うしかなくなったせいか、どの出版社も、本をよく読む一割の人ではなく、本を読まない九割の人をターゲットにしようとしている。
つまりは、どれもベストセラー狙いで出版されているということである。
 しかし、少しでも考えてみればわかるように、書店に来ない九割の人たちに本を買わせるのは、天井から目薬を差すのよりも難しい。なのに、どの本もこの難しいことをしようとして悪戦苦闘しているのである。
 こうした「甲斐なき努力」にもかかわらず、いやそうした努力ゆえに、九割狙いの本にはえてして卑しい「匂い」がたちこめてしまう。それはハウツー本やビジネス本だけではなく、文芸書にもいえる。
 だから、ある意味で、書店で本を選ぶのはとても簡単なのである。卑しい「匂い」のする本を避けること。もっといえば、そうした「匂い」に満ちた大型書店には行かないこと。これに限るのだ
  

神田村通信/清流出版
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 オペラの解説書などには、「パリのオペラ座というのは、オペラを見る場所であるという以上に、一つの社交場なのです」と書いてありますが、これは実際にオペラ座に足を運んで、オペラの上演に立ち会わないと理解できないものです。
 たとえば、舞台脇のボックス席。素人考えでは、一番、舞台が見にくい位置のはずですが、料金的に一番高いのがここです。しかし、客席が満席になってくるとようやく、その理由がようやくわかってきます。ボックス席というのは、「見る」ための席であるというよりも、「見せる」ための席なのです。そう、ボックス席を年間予約できるだけの余裕のある上流階級の人々が、そのボックス席に現れて、オペラを見るという口実のもとに、自分たちの着飾った姿を観客に「見せる」のです。昔なら、皇帝や王様あるいは大貴族、いまなら、その時々の成金やスーパースターがこの舞台脇のボックス席の常連で、他の観客から「見られる」という恍惚を味わうため、あるいは新しい恋人や愛人を「披露」するために、オペラ座にやってきます。
 もう一つは、幕間に観客が繰り出す、巨大なフォワイエ(休憩室)。ここは、いまでも、パリの貴顕男女が落ち合う最大な社交場で、シャンペン・グラス片手に粋な会話が交わされています。
 このほか、十九世紀には、もう一つの社交空間がありました。それは、舞台よりも少し下がった場所にあるボックス席です。ここに陣取った好色な紳士たちは、自分が「囲い者」にしようと狙う端役の踊り子たちを間近から観察し、舞台終了後には、定期会員用に特別に設けられた入口を通って楽屋に花束やプレゼントを届けたのです。
 この点を頭に入れておくと、『オペラ座の怪人』をよりよく理解できると思います。ガストン・ルルーの原作にも、「本物のパリシャンで、シャニイ伯爵のような地位にある男なら、姿を見せて当然な場所というものがあるものであり、当時、オペラ座のバレリーナの楽屋は、そうした場所のひとつだったのである」と書かれています。つまり、オペラ座というのは、金と地位に恵まれた男が、その財力と権力にあかせて、絶世の美少女をガール・ハントしにいく場所だったのです。
 『オペラ座の怪人』のおもしろさは、こうしたガール・ハントの場所である舞台袖のボックス席に、黒服に骸骨という異様な格好の怪人が現れて、歌姫クリイスチーヌを巡って、貴族の青年ラウルと恋の鞘当てを演じるところにあります。普通の男が相手ならなんとか対処のしようがありますが、ファントムがライヴァルでは・・・。
 もう一つの興味は、この怪人がオペラ座の外部ではなく内部、それも地下の巨大な空間に住み着いていて、そこから忽然とボックス姿を現したり、怪事件を起こす点にあります。オペラ座の地下には、われわれの与り知らない闇の世界が広がっていて、そこでは、地上とは別の法則が支配しているようなのです。
 じつは、このオペラ座の下の地下世界というガストン・ルルーの奔放なイマジネーションにはひとつの現実的な根拠がありました。
 それは1862年に始められた工事の途中、 オペラ座の地下に、 ローマ時代から削岩をつづけられてきた広大な採石場跡が見つかったことです。 地下は完全な空洞で、 そこには地下水が流れこんでつくられた「湖」さえあったのです。 その結果、 この「湖」の水をくみ出したり、浸潤を防ぐために何重にも隔壁を設けたりしたため、膨大な費用と手間がかかり、オペラ座の完成は一八七五年まで待たなければなりませんでした。その間には、パリ・コミューンの戦乱もあり、反徒が地下の迷路を使って逃げたなどの逸話も伝えられています。 ガストン・ルルーは、こうしたオペラ座の文化的な背景と伝説をうまく使って物語を組み立てています。オペラ座は、そこで演じられているオペラのほかに、伝説という「オペラ」を背負ったモニュメントですから、怪人(ファントム)が現れても少しも不思議はないのです。
 
文学的パリガイド (中公文庫)/中央公論新社
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 ×月×日
  また引っ越しをした。三年間で三度目、しかも三、四万冊の本を抱えてである。我ながら「何をかいわんや」の心境だが、増え続ける本と戦うには「より広く、より安い」ところへ引っ越すしかないというのが結論だからしかたがない。
  それはさておき、引っ越しをして書棚の整理をするたびに思うのは文庫と新書は偉大な発明であるということだ。そこに詰められている情報量・思想量・感情量を書棚専有面積と比較したら、こんなに割安なものはないと思えてくる。とりわけ、その感を強くするのが専門外の新書を読んだ時。
 金文京『漢文と東アジアーー訓読の文化圏』(岩波新書 八〇〇円+税)は久々に「これはお得」と感心した新書である。日本独特のものと思われている漢文の訓読は、じつは、日本語・朝鮮語・ウイグル語・満州語・モンゴル語などの膠着語文化圏でも観察される。著者はこの点に注目して、漢字文化圏の国それぞれが漢文の訓読を介してどのようにして文化を形成していったかを見ようとする。
 一般に、漢字を自国特有の単語の発音に置き換えて読む訓読が可能なのは漢字が表意文字で発音と直結していないからである。では、そもそも「訓」とは何かといえば儒教や仏教などの経典を教えるための注釈、すなわち訓詁学を意味する。日本人が漢字の日本語読みを「訓」と読んだのは、この作業そのものが日本語という外国語による一種の注釈であると考えたからである。
  しからば、なにゆえに隋や唐の時代に中国において訓詁学が発達したかといえば、儒教古典の現代語訳もさることながら、むしろ仏典の中国語訳が原因であった。すなわち、梵語(サンスクリット)で書かれた仏典を漢訳する場合、しばしば梵語ではこう言うが中国ではこう言う意味であると注釈を施す。前者は「梵云」で、後者は「此云」。「此云」とは「ここ中国では」の意味。このうち、意外に重要なのは「梵云」で、これは梵語の発音を表音的に漢字で表すことだが、それには一定の規則性があった。また、「此云」では語順を転倒させたり順序を整えたりする必要があるため、転倒記号や順序数字が生まれた。
 著者は、こうした梵語↓中国語の翻訳の過程を日本人留学生が学ぶことが中国語↓日本語の翻訳、つまり漢文訓読のヒントになったのではないかという仮説を立てる。
 「日本に漢字文献が本格的にもたらされた飛鳥、奈良時代は仏教の時代であり、中国伝来の文献の主流は仏典であった。その仏典を読んだ当時の日本人とりわけ僧侶たちは、このような梵語から中国語への翻訳の実態を当然知っていたであろう。そしてこれを逆に応用すれば、中国語から日本語へという発想がそこから出てくるわけである。漢文を日本語で読むという訓読の方法は、寺院での仏典の解釈からはじまったものであるが、その直截の起源はおそらく仏典における梵語から中国語への翻訳にあったであろう」
 目の覚めるような、素晴らしい仮説である。なるほど、こう解釈すれば、万葉仮名や訓読記号の誕生も理解しやすくなる。
  ところで、日本語で起こったことは、同じような膠着語である朝鮮語でも起こったはずである。現に、新羅には日本よりも早く仏典が伝わり、新羅仏教が盛んになっていたが、その中からは梵語の漢訳を直接手掛けた彗超という留学生が現れた。そこから次のような第二の仮説が生まれる。「漢文訓読の起源は、仏教の梵語経典の漢訳にあると述べたが、右に述べたインド求法僧や訳経僧の存在により、新羅は日本より早く、かつ格段に詳しくインドの言語事情や仏典漢訳の実情を知り得たであろう。漢文訓読が新羅ではじまったと考えられる最大の状況証拠は、この点にある」
 これだけでも十分に刺激的であるが、著者はさらに漢文が近世以後はアクチュアルな中国語とは隔たりのある化石語となったことが逆に中国の周辺に様々な漢文文化圏を成立させたのではないかという第三の仮説を立てる。「漢文は実際の中国語の変化に関係なく、時空を超越した約束事によって書かれるものであった。だからこそ東アジアの共通言語となったのである」
 とはいえ、中国周辺国による漢文はその言語特有の癖などが影響した変体漢文となるケースが少なくなかった。そのレベルはさまざまで①漢文の規則の未習熟による破格②母国語の語法や語彙の影響(例・日本語臭い漢文としての和習・和臭)③自国語語法による変形を意識的に使うもの(例・擬漢文)④漢字を表音的に用いて自国語を表記したもの(例・万葉仮名)などの段階があるが、中でユニークなのは、日本の中世から近代にかけて使われた一種の変体漢文である候文。というのも、この候文から候を抜いて福沢諭吉が作った通俗文が今度は韓国語(朝鮮語)や中国語にも影響を及ぼすことになったからである。「明治の文体に端を発する今日の日本、中国、朝鮮半島それぞれの文体は、多くの相違点を含
みつつ、互いに外国語でありながら、なお東アジアが共有する一種の変体漢文としての性格を強くもっていると言える。そしてその背後には、当然ながら、中国、朝鮮半島、そして日本における規範的漢文と変体漢文の長い伝統があったのである」
  訓読という名の漢文翻訳こそが文化を創ったという翻訳文化論の傑作である。

  学校へ行く道 ジョン=ラスキン

冬になって氷が張ると、
冬になって雪がふると、
学校へ行く道は長く、さびしい。
その道を生徒が行く。

だが、愉快な春が来て、
花が開き、鳥が歌えば、
学校へ行く道のなんて短いことか。
そうして楽しい時間の短いこと。
しかし、勉強が好きで、
知恵を得ようとはげむ子には、
学校へ行く道はいつでも短い。
照る日も、雪の日も、また雨の日も。

どういう人であろうと心はけだかく、
どんなことをするにも心をこめて、
何を話すにも心やさしく、
いつでも人々の喜びとなれ。
どこに君が住もうとも。
(「日本少国民文庫」より)

あの頃、あの詩を (文春新書)/文藝春秋
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 フランスに初めて行ってカフェに入ったとき一番驚いたのは
、カウンターで立ち飲みするのと、室内あるいはテラスの椅子
に座るのとでは料金が違うということだった。つまり、飲食代
と椅子の占有が「切り離されて」いることがいかにも面妖に映
ったのである。
 しかし、後にカフェの発生を歴史的にあとづけてみて疑問は
氷解した。フランスのカフェでカウンターと椅子席とでは料金
が違うのは、カフェが都市で一つの避難所(アジール)
とし機能してきたことと大いに関係がある。一八六七年刊の『
パリ・ガイド』の「カフェ」という項目には友に宛てた手紙で
カフェの機能がこんなふうら説明してある。
 「カフェは、ぼくのような、家族も家庭もない者にとっては
絶対に欠かすことのできない贅沢なんだが、そればかりか、こ
れはたいへんな倹約にもなるのさ。(中略)たとえば、夕食を
部屋で済ませて外に出なかったとしよう。この場合には、まず
ローソク代がいるし、冬なら火を燃やさなくちゃいけない。と
ころがカフェにいれば夕食代を払うだけであとは一スーも使わ
ずに光と熱を享受できる。おまけに新聞・雑誌も読めるし、ペ
ンとインクと紙も使える」
 そう、フランスのカフェは貧しい若者にとって、暖房と照明
付きの書斎、今の日本で言えば漫画喫茶のようなアジールとし
て役だってきたのである。席の使用料を払いさ
えすれば、カフ
ェにはいつまでも居つづけることができるから
だ。サルトルや
ボーヴォワールを始めとする多くの作家がカフ

ェを愛したのはこの理由によるのである。 


パリ五段活用 時間の迷宮都市を歩く (中公文庫)/中央公論新社
¥800
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×月×日
  戦前の都市中間層に最も親しまれていた飲料はなにかと八〇歳以上の人々に問いかけてみると、意外な答えが返ってくる。サイダーでもラムネでもない。大日本雄弁会・講談社が発売元となっていた「どりこの」である。だが、この「どりこの」は不思議なネーミングを始めとしていろいろと謎が多かった。誰がつくったのか?講談社の野間清治はなぜあれほどの宣伝費をかけて売り出しを図ったのか?第一、いったいどういう味だったのか?宮島英紀『伝説の「どりこの」一本の飲み物が日本人を熱狂させた』(角川書店 一五〇〇円+税)は生存者に取材して「どりこの」の謎を解き明かしてゆくドキュメンタリー。曰く、「どりこの」とはDURIKONOと書き、DRINKとは関係がない。
それは『絶対の探求』のバルタザールのような発明者・高橋孝太郎博士がブドウ糖研究者のドゥリーックというドイツ人の論文をヒントに飲料を考案したからである。すなわち、ドゥリーックからDURIを取ってこれに自分の名の孝太郎の頭文字KOを合わせ、助手たちのイニシャルを合成してNOとつけたのである。「どりこの」は最初、三越と資生堂で限定発売されたが、それを飲んだ野間が大感激して大々的に売り出すことにしたようだ。しかし、生産は博士に一任されていたため、自宅横の工場では間に合わず、博士は休む暇なく働き続けるはめに。最後の謎である「どりこの」はなぜ消えたかについては直接、本書に当たっていただきたい。あっと驚くような真相が語られているからである。

伝説の「どりこの」 一本の飲み物が日本人を熱狂させた/角川書店(角川グループパブリッシング)
¥1,575
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×月×日

 齢を重ねたせいか、映画やテレビで親しんでいた昔の俳優や芸人たちの名前が顔や声とともに突然蘇り、しばらくは楽しい気分に浸ることがある。藤原釜足、左卜全、有島一郎、益田喜頓、由利徹、市村俊幸(ブーちゃん)、望月優子、武智豊子、三崎千恵子、楠トシエ、それに別格として森繁久弥。とにかく、みんな一度見たら忘れられない顔と声の名優たちだったが、実はここに列挙した名前には一つの共通項があった。戦前・戦後に一世を風靡したレヴュー劇場・新宿ムーラン・ルージュの在籍者であるということだ。以前、これに興味を持ち調べてみたことがあったが基本資料がないので断念した。それがようやく決定版と呼べるような研究書が現れた。軽演劇の昭和
小史』(森話社 三五〇〇円+税)。

 ムーラン・ルージュがあったのは今日ポルノ映画館「新宿国際劇場」がある場所。開場は昭和六年。劇場主は御殿場生まれの佐々木千里(本名・勝間田兵吉)。佐々木は軍楽隊養成の陸軍戸山学校に学んで音楽と演劇に熱中し、演芸記者から浅草オペラの歌手に転じ外山千里の芸名で曾我廼家五九郎一座でも人気を集めた。この外山に一目惚れしたのが浅草の有名なカフェー「広養軒」の看板娘お絹で、外山はめでたく婿養子に迎えられ、佐々木姓を名乗るようになる。しかしスペクタクルへの情熱は癒しがたく、衰退著しい震災後の浅草に見切りをつけ、レビュー劇場の経営に手を染めようと虎視眈々と狙っていた。昭和五、六年のことである。
 「浅草オペラのように、適度に知的で洒落ている、インテリ向きのレ
ヴュー・ショウはできないだろうか。幸いにして佐々木には、浅草オペラから曾我廼家五九郎一座、プペ・ダンサントを経て築いた広範な人脈があった。広養軒には有名作家の常連も多い。作品提供や宣伝に彼らの協力を得ることもできるだろう。(中略)佐々木千里が、個人資本でレヴュー劇場を開場するという無謀に挑戦する根拠は揃っていた」
 
 佐々木が狙ったのは新開地・新宿だった。昔、馬糞新宿と呼ばれたこの新しい盛り場は、関東大震災後、デパート進出で大躍進を遂げていたが、その原動力となったのは西部近郊居を構えた都市新中間層であった。佐々木のムーラン・ルージュはこの新中間層を相手に勝負に打って出たのである。佐々木の賭けは当たり、ムーラン・ルージュはスターを輩出したが、個人経営で金がないので人気者は次々に大劇場や映画に引き抜かれていった。「だから、ムーラン・ルージュは『スター養成所』『引き抜かれ劇団』と呼ばれたりもしたが、他の劇団にどれほど引き抜かれようとも、劇場主の佐々木は次から次へと新しいスターを生み出した」

 こうした都市中間層の劇場という特色を最もよく体現していたのが太宰治の親友で後にラジオやテレビのホーム・ドラマのスター脚本家となった伊馬鵜兵(春部)である。伊馬は国学院で折口信夫の薫陶を受けた歌人だったが、同じ町内の杉並天沼に住む井伏鱒二の推輓でムーラン・ルージュ文芸部に入るや、スケッチ的小市民喜劇でたちまちのうちに頭角を表し、劇団の性格を決定づけた。「ムーラン・ルージュの観客の多くは郊外生活者だ。おそらく彼らは伊馬の童謡詩人のような視点を通じ、自分たちが暮らす郊外の小さく完結した日常生活の中に潜む豊かな生活感情に改めて気づかされたのだろう」。
 戦後の混乱期にムーラン・ルージュは新宿と軌を一にするように猥雑化し、昭和二六年に最終公演を迎えたが、劇団スタッフは、新天地を求めてこの時期に産声をあげた民間ラジオ・テレビに流れ込んでゆく。新しい日常性のメディアにムーラン・ルージュ調はジャスト・フィットしたのである。この意味では、ムーラン・ルージュが戦後のラジオ・テレビを創ったといっても過言ではないのである。徹底的に資料に当たりながら、通読してもおもしろい演劇史に仕立てた腕は見事の一語。本年の大きな収穫である。
 
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  近年、地球温暖化の影響か十一月も下旬にならないと紅葉しないと思っていたら、十二月に入ったとたん急にに寒くなった。湿気を含んだジットリとした寒さだ。朝、街に出て冷たく湿った空気を肺に吸い込んだらパリの冬を思い出した。東京で感じるパリ。感覚の記憶ばかりでなく、書物から得た記憶も重なって妙にプルースト的な気分になった。

(ちくま学芸文庫 九五〇円+税)はプルーストに触発されて、感覚の記憶という言葉にならないものを言葉にしようとした不思議な小説である。「戦前だとか戦後だとか言うようなことになるとは誰も夢にも思っていなかった時代」の本郷信楽町で高等遊民を決め込んでいる「私」はおしま婆さんの営む下宿で湯豆腐を二人で突っついたり、あるいは近所のおでん屋で自転車屋の勘さんと意気投合し、神楽坂で一晩飲み明かしたりする。帝大仏文科の大学生・古木君と知り合って一緒に銀座に出掛けて紀伊国屋(銀座に紀伊国屋があったのだ!)でフランス語の本をのぞいた後、三原橋の喫茶店で文学談義に花を咲かせることもある。こうして日々を過ごすうちに一年が終わり、次の春が巡ってくる。ただそれだけの話だが、これがなんとも言えずに快く、面白いのである。もしかすると、プルースト的な記憶というものを描くのに成功した唯一の日本の小説ではないかとさえ思えてくる。たとえば、勘さんと神楽坂のバーで飲んでまだ飲み足らず待合で徹夜で飲んで朝帰りする円タクの中での思い出。
 「序でに書いておくとその車の中は寒かった。(中略)併しそれでこういう朝帰りの車の中での寒さが冬の朝の気分を助けたということもある。それは雀の鳴き声や地面に降りている霜と同じでそうした外から締め出されていない車の中にも朝があった。従ってそれはそのまま熱い番茶だとか味噌汁だとかトーストだとかに繋った。又これを更に延長すればおでんに焼き芋に火鉢に起こった炭火があり、こ
の寒さがあって当時の洋館の温水暖房も炉に燃え盛る薪の火もそれはそれなりに冬を感じさせた」。
 昔の東京を事実でなく感覚で蘇らせた傑作である。


東京の昔 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
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>  アニメや漫画を介して日本から輸入されたのか、最近では、フランスでも、聖バレンタイン(サン・バランタン)デーに、男の子にチョコレートを贈って恋の告白に変える女の子がいるという話を聞いた。フランスにもオタクが増え、積極的に女の子に声をかけられない男の子が現れてきたせいかもしれない。
>  それはともかく、フランス人はチョコレートが大好きだし、恋人同士がよく贈り物にする。
>  なぜなのだろうと考えているとき、たまたまカサノヴァの自伝を読んで、はたと膝を打った。チョコレートというのは、それが固形化されて子供のお菓子となる以前には、一種の媚薬として、大人の男女の仲を取り持つ役割を果たしていたのだ。つまり、男女が一緒にホット・チョコレート(ココア)を飲むということは、暗黙のうち恋の同意が成立したことを意味していたのである。
>  なるほど、こうした恋の同意は、コーヒーでも紅茶でも生まれない。一生懸命になって溶いたココアを男と女が同時に啜る瞬間、そこに、閾を越えるような共犯めいた親密さが発生し、そのまま恋へとなだれこんでいくのだろう。
>  だから、大衆的なチョコレートは子供のものでも、贅を凝らした手製のチョコレートは大人のものという認識がフランス人の意識の底にはいまだに残っているのである。
>  だから、聖バレンタインデーにチョコレートをという日本人の「発明」は決して見当違いのものではなく、むしろ、チョコレートの本質を射ていたのだ。
>  フランスへの逆輸入という現象が起きるのも「むべなるかな」なのである。 

クロワッサンとベレー帽―ふらんすモノ語り (中公文庫)/中央公論新社
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