鹿島茂 「都心に住む」に2004年に書いたエッセイ | 鹿島茂の読書日記

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鹿島茂公式ブログ。未来過去、読んだ書籍の書評をあげていく予定です。

 神保町に仕事場をもうけたのが去年の四月のこと。さくら通りから一つ入った築四十年のビルの五階だったが、今年の四月からは、すずらん通りに面した、これまた築四十年のビルの三階に引っ越した。
 引っ越しの理由は、同じすずらん通りにある東京堂を書庫にしてしまおうと考えたことである。おかげで、執筆中に「あっ、あの本が必要だ」と思ったときに、すぐに買いにいけるようになった。
 そればかりではない。仕事に飽きると、すずらん通りに出て、東京堂を一回りしてくるが、この特定の目的を持たない本の渉猟というのがまた楽しい。新刊書の棚ではなく、常設の棚も少しづつ動いているのが肌で感じられるからだ。
 とはいえ、楽しみのためにだけやっているかといえば、そうとも限らない。私は、図々しくも「職業的書評家」と名乗っているが、この「職業」にとって、新刊本の書店を循環していることは、アスリートにとっての筋肉トレーニング、日々のランニングに相当するからである。
 つまり、常に新刊に目配りする努力を怠ると、書評家としての眼力が落ちるのである。これは、私が信念にしている「質には量を」という法則から来ている。すなわち、ある程度の量をこなしていないと、質は確保できないということで、常にたくさんの本に接してカンを磨かいていないと、読まずに良書を見いだすことは不可能なのである。
 この点において、インターネットが普及した今日でも、私は断固とした「店頭派」である。本というのはやはり、現物を手に取ってみないかぎりわからない。タイトルから始まって、カバーのセンス、オビの謳い文句、紙質、目次、後書きといちいち検討していかなくては、それが買うに値する本か否かは決定できないのである。人よりは大量に本を買う職業的書評家だろうと、つまらない本、価値のない本に金は使いたくないのだ。
 しかし、こう書くと、私はあなたのような「職業的書評家」ではなく、平凡な一読書家にすぎないので、そのような筋トレ的な書店巡りをしている暇はない。なにかもっとてっとり早い方法はないでしょうか、少なくとも、小説だとかエッセイなどの善し悪しを見抜く方法は、という問いがなされるはずだ。
 こうした問いには、こう答えることにしている。
 本には、ある種の「匂い」があるんです。この「匂い」は、書店に常に足を運んでいないとかぎ分けられない。だから、書店に行く習慣のない人がいきなり、良い本に巡り合うなんてことは無理ですよ。それより、うちでテレビでも見ていたほうがいいんじゃないですか。あなたは本とは無縁の人のようだから。
 そうなのである。世の中の九割の人は本とは無縁の人なのである。本をよく読む人は、日本が百人の村だったとしたら、たったの十人しかいない。それも、本がなければ暮らしていけない人はたったの一人くらいの割合だ。これは統計的に厳然たる事実だ。この十人、あるいは一人が、日本の本を買い支えているのである。マーケッティグ理論には、二割の人が全売上の八割を購入している「二割・八割の法則」というのがあるのだそうだが、本の場合は、一割の人が全体の九割を購入しているのだから「一割・九割」の法則だ。
 ところが、ほとんどの出版社はこの事実を認識していない。とりわけ、最近は不況でやりくりが苦しくなってきて、一発大逆転を狙うしかなくなったせいか、どの出版社も、本をよく読む一割の人ではなく、本を読まない九割の人をターゲットにしようとしている。
つまりは、どれもベストセラー狙いで出版されているということである。
 しかし、少しでも考えてみればわかるように、書店に来ない九割の人たちに本を買わせるのは、天井から目薬を差すのよりも難しい。なのに、どの本もこの難しいことをしようとして悪戦苦闘しているのである。
 こうした「甲斐なき努力」にもかかわらず、いやそうした努力ゆえに、九割狙いの本にはえてして卑しい「匂い」がたちこめてしまう。それはハウツー本やビジネス本だけではなく、文芸書にもいえる。
 だから、ある意味で、書店で本を選ぶのはとても簡単なのである。卑しい「匂い」のする本を避けること。もっといえば、そうした「匂い」に満ちた大型書店には行かないこと。これに限るのだ
  

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