花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは~「催花雨」と迷う桜 | 尾張エクセルの「日々精進ブログ」

尾張エクセルの「日々精進ブログ」

木曽の清流に映え、心触れ合う躍動都市;愛知県一宮市に活動拠点を置く、尾張エクセルです。保守政権を応援しつつ、経済・社会・軍事防衛まで、地域や国内、海外の気になる出来事や話題を、独断と偏見溢れる一味違った目線でブログ提供します。

テーマ:
今回のブログは、兼好法師の『徒然草』第137段である。
花は盛りに 月は隈なきをのみ 見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて
春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。
咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所 多けれ。歌の詞書にも、
「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまか
らで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。
花の散り 月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ 「この
枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。
 
万の事も、始め・終りこそをかしけれ。
男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、
あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に
昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。
望月の隈なきを 千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて 待ち出でたるが、
いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うち
しぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。
椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて、
心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
 
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。
春は 家を立ち去らでも、月の夜は 閨のうちながらも思へるこそ、いと たのも
しうをかしけれ。
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑なり。片田舎の
人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本には、ねぢより、立ち寄り、あから
めもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。
泉には 手足さし浸して、雪には 下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら
見ることなし。
(以下省略)
 
現代語訳を添付しておく。
サクラの花は満開の時だけを、月は影のない満月だけを見るものだろうか?
雨に打たれて雲の向こうに浮かぶ月を恋しく思い、カーテンを閉め切って、
春が終わっていくのを見届けないとしても、また、ふんわりと優しい気持ち
になるものだ。こぼれそうなツボミの枝や、花びらのカーペットが敷かれて
いる庭だって見所はたくさんある。
短歌の説明書きでも「お花見に行ったのですが、既に散り去っていて」とか
「のっぴきならぬ事情で花見に行けなくて」と書いてあるのは「満開の桜を
見て詠みました」と書いてある短歌に負けることがあるだろうか? 
花が散り、月が欠けていくのを、切ない気持ちで見つめるのは自然なことで
あるが、なかには、この気持ちを知らない人がいて「この枝も、あの枝も、
花が散ってしまった。もう花見など出来ない」と騒ぐ。
 
この世界の事は、始めと終わりが大切なのだ。
男女のアフェアだって、本能の赴くまま睦み合うのが全てだろうか? 
逢わずに終わった恋の切なさに胸を焦がし、変わってしまった女心と、未遂
に終わった約束に放心しながらも、終わりそうもない夜を一人で明かして、
恋しい人がいる場所に男の哀愁をぶっ放したり、雑草の生い茂る荒れ果てた
庭を眺めては、懐かしいあの頃を想い出したりするのが、恋の終着駅に違い
ない。澄み切った空に、光り輝く満月が空を照らす景色よりも、夜明け近く
まで待ち続け、やっと出た月が、妖しく青い光を放ち、山奥の杉の枝にぶら
下がったり、樹の間に影を作ったり、時折雨を降らせた雲の向こうに隠れて
いるのは、格別に神々しい。
椎や樫の木の濡れた葉の上に 月の光がキラキラと反射しているのを見ると、
心が震え、この気持ちを誰かと共有したくなり、京都が恋しくなる。
 
月であってもサクラであっても、一概に目だけで見るものだろうか? 
サクラが咲き乱れる春には、家から一歩も出なくても、満月の夜は、部屋に
籠っていても、妄想だけで気持ちを増幅させることは可能だ。
洗練された人は好事家には見えず、貪ったりしない。中途半端な田舎者ほど、
実体だけをねちっこく有り難がる。サクラの木の根本にへばりついて、身を
よじらせ、すり寄って、穴が空くほど見つめていたかと思えば、宴会を始め、
カラオケにこぶしを震わせたあげく、太い枝を折って振り回したりする始末
である。澄んだ泉には手足をぶち込むし、雪が降れば、地面に降りて足跡を
付けたがり、自然をあるがままに、客観的に受け入れられないようだ。
 
小生が愛読する産経新聞3月24日付け朝刊コラム【産経抄】から、一部加筆
のうえで引用して紹介する。
 
<花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは>。
兼好法師は『徒然草』第137段の書き出しにこうつづった。桜の花は真っ盛り
に咲いているものだけを、月は陰りなく輝くさまだけを見て、賛美するものなの
だろうか…と。
「じきに咲こうか」という梢(こずえ)にも、散った後の庭にも 見るべきものは
ある。兼好は、そう続けた。とはいえ、現代人は見ごろにうるさい。温暖な2月
から一転、このところの寒の戻りで桜が迷っている。早い開花を当て込み催した
「桜まつり」が肩透かしを食った地域もあるらしい。
 
花の便りを待ちわびる人々にとっては、近くなっては遠ざかる春の足音が、さぞや
うらめしかろう。まだ咲き始めの桜が多い皇居・乾通りでは、3月23日から31
日まで、春の一般公開が行われている。
『雨のことば辞典』(講談社学術文庫)によると、この時期に しとしと降る雨を
「催花雨(さいかう)」と呼ぶ。花々の開花を促し、せき立てる。世話好きな雨ら
しい。菜種梅雨というおなじみの言葉も思い出す。「花」と「雨」の親和性の高さ
がうかがえる。
桜の動静を伝える気象庁のホームページをのぞくと、高知でようやくソメイヨシノ
が開花したものの、23日夕方の時点では大半が空白だった。桜前線の歩みは極め
て緩慢なようである。列島を優しく潤す「催花雨」が寝ぼけまなこの桜に活を入れ
るまで、もう少しの辛抱だろう。
兼好が筆を執ったとされるている鎌倉末期、花の盛りは「立春より七十五日、大様
違(おおようたが)はず」だったらしい。今の暦なら4月20日頃であろうか。
徒然草には「万(よろず)の事も、始め終りこそをかしけれ」の一節もある。梢の
膨らみを肴(さかな)に一献傾けてこそ、通人のたしなみなのかも。
 
閑話休題。全国一斉に桜の開花宣言が出された。今年の桜(ソメイヨシノ)の開花は
3月23日に熊本と高知からスタートして、その後、東京や名古屋でも開花が発表
されている。開花時期は、西日本や東日本では概ね平年並、北日本は平年より早く
なる見込みである。先週中頃は寒気の影響で各地で気温が低下して、東京では雪の
降った日もあった。気温の低下によって桜のつぼみの生長が一旦足踏みしたものの、
先週末は晴れて一気に気温が上昇して、生長が加速した。
今週は、本日;3月28日頃までは全国的に春〜初夏の陽気が続いて、西日本や東
日本では、3月の間に各地で桜が開花する予想である。
​​​​​​​
「名古屋城 春まつり」は、毎年 桜が咲くこの時期から、ゴールデン ウィークまで
開催されている。城内には、ソメイヨシノやシダレザクラなど、約900本の桜が
植えられている。
本日は スッキリとしない天候であって、にわか雨の可能性もあるというが、昼間は
この時期らしい体感になるという。今朝の午前中には 大雄会クリニックへの通院で
あり、先週の採血・検査結果に基づいて 脳神経内科~血液内科~内分泌内科の診察
を受ける予定である。些か憂鬱な小生である。
桜の開花宣言もされており、春は足踏みをしながら、もうすぐそこまで来ている。