「蛍の光」の全4番までの歌詞を、歌の生まれた明治初期という時代と共に見る | 尾張エクセルの「日々精進ブログ」

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卒業式シーズンの3月は『蛍の光』の出番である。
流行ソングを中心に卒業式で歌いたい曲には新規参入が相次ぐものの、『仰げば尊し』と
ともに世代を超えて歌い継がれている。
「スコットランド民謡」を原曲としながらも、日本人の琴線に触れるようなこの曲には、
一筋縄では括れそうにない、いろんな顔が見えてくる。

「ショッピングセンターの閉店時」に流れて、「さよならメロディー」として親しまれて
いるのは、全く別名の曲である。
学校で教わる「正調の『蛍の光』は4拍子」だが、こちらは「3拍子のワルツ」なのだ。
戦後に、作曲家の古関裕而さんが編曲してヒットした『別れのワルツ』が、「泣ける曲」
として世に広がった由。「3拍子にすると、どこか哀調を帯びてくる」のを狙ったのか。
「蛍の光 窓の雪」で始まる歌詞は、普通は 2番までしか歌われないが、3番,4番と
なると 調子が些か変わるのだ。「刻苦勉励と友情を歌う平和主義の2番まで」に対して
3番目以降は色調が変わる。
今回のブログでは、「蛍の光」の歌詞について記述してみよう。
「他国の国歌など 文章はかなり強烈であっても愛されているのは、その時の国の状況と
思いも含まれているからだ」と小生は思う。国歌ではないが愛唱歌としての「蛍の光」
について述べる。
「蛍の光」は卒業式で歌われて、この歌に思い出を持たない人は、いないだろうと思う。
歌のメロディは「スコットランドの民謡」であるが、欧州でも広まりアメリカ大陸でも
普及しているようである。
日本では、明治10年代に「小学唱歌集」に編集されたときに、稲垣千頴(いながき ち
かい)氏が作詞して、「蛍の光」と命名された。
1881(明治14)年に、 正式に「小学唱歌集」として編纂されている。それ以後は、
日本では今も広く愛されて歌われている。
「蛍の光」が日本で生まれた頃といえば まさに「明治の近代化の真っ最中」なのだった。
「明治維新の後期」と言ってもいいと思う。明治10年が西南戦争であって、明治という
時代にこそなっているが、まだ「大日本帝国憲法」もできていない。
「日清戦争・日露戦争」はもちろんまだ起こっておらず、まさに「徳川体制からの転換を
大急ぎで進めている真っ最中」であった。西郷隆盛・木戸孝允らが活躍していた時代だ。

 
一般的に、「蛍の光」の歌詞は 2番までは頭に浮かぶと思う。しかし、本来は4番まで
ある歌なのである。まずは、その歌詞を見てほしい。
 
<1番の歌詞>を紹介する。
「蛍の光 窓の雪、書(ふみ)読む月日 重ねつつ、いつしか年も すぎの戸を明けてぞ 
けさは別れゆく」
ここでの解説は省略する。
 
<2番の歌詞>を紹介する。
「とまるも行くも限りとて、かたみに思う ちよろずの、心のはしを一言(ひとこと)に、
さきくとばかり 歌うなり」
2番は 「ふるさとに残る者も、ふるさとから出る者も、今日限りでお別れ」ということで
互いに思う何千何万という心の端々をたった一言『無事で』とばかりに歌うのである。
 
<3番の歌詞>を紹介する。
「筑紫(ちくし)のきわみ 陸(むつ)の奥、海山(うみやま)遠く へだつとも、その
真心(まごころ)はへだてなく」
3番の『筑紫のきわみ』や『陸奥の奥』は、九州・東北をさす。「具体的な地名というより
そういった地方も含め遠くにあっても…」という表現であろう。
 
『海山遠く、へだつとも』という表現は、陸地だけでなく 海や山で隔たれた諸島である。
『その真心はへだてなく』とは、まさに、「皆で一緒に」という表現であろう。真心という
ことばも、へだてなくという言葉も、「日本全体で」という作詞者の気持ちを表している。
 
<4番の歌詞>を紹介する。
「千島(ちしま)のおくも 沖縄(おきなわ)も、八洲(やしま)のうちの 守りなり、
至らん国に 勲(いさお)しく、つとめよ わがせつつがなく」
4番では北海道・沖縄に触れている。ここで小生の好きな表現は『八洲(やしま)のうちの、
守りなり』である。日本と直接表現せず、古い言葉を用いている。
「八洲(やしま)」とは 「日本の別表現」である。本来は「多くの島からなる国」という
意味らしいが、古事記では、「本州・九州・四国・淡路・壱岐・対馬・隠岐・佐渡などの
「八つの島」の総称と言われて「古くから日本をさす表現の一つ」として用いられている。
「日本」と直接表現していないところにも小生は日本らしさを感じる。
『つとめよわがせ、つつがなく』という、最後の句が現在では物議を出すのであろうか。
「つとめよ」は「努力せよ」である。「わがせ(我が背)」とは、女性が男性の背中に対し、
「我が友よ 我が夫よ、我が兄弟よ」と励ます際に使っていた表現だそうである。
「女性たちが男性たちを叱咤して、協力する」ような意味といえるのではないかと思う。
こうして、3番・4番の歌詞をみてどう思われるだろうか。その後、この歌詞が使われなく
なった歴史も含めて考えると、人によっては「祖国防衛を強要する軍国色が強い」と思うの
だろう。今見ても、そう感じる人もいるのではないかとも思う。実際、領土の意識のための
歌詞の変更が数回されている。
 
しかしそう思う人も、感情は抜いて歌詞そのものをもう一度見てほしい。そこには「当時の
日本語の表現を巧みに使い、古事記までも使って、豊かに表現されている」ではないか。
また いかにも日本的と言えるが、「表現は全て 日本と日本人の団結を願う内向き」である。
「敵」や「侵略者」という表現は全くない。
「日本」を柔らかく表現しつつ「日本人」として、「真心をもって隔てなく、男女一致して
団結しよう」という、つつましくも自覚を促す、表現の歌であると思う。
 
改めて、この歌が作られた時期を考えたい。「明治10年代というと、西南戦争が終わった
ばかり」である。明治維新の後期ではあるが、つい最近まで徳川幕府があって、明治維新の
真っ只中だったのである。
暗殺も横行して、国がどうなるか全く不透明である。ヨーロッパ列強のアジア植民地化が、
どんどん進んでいる中で、「日本」が国として単独で生きていけるかどうか、全く不透明の
大混乱期である。
そんなときに、稲垣 千穎が 古事記などの表現も使いつつ日本を広く優しく表現し、「一致
団結してがんばろう」と表した唱歌である。それが明治政府に採用されて、全国の尋常小学
校の唱歌になった。
その当時の世界情勢 及び日本の状況も見た上で、改めて歌いなおすと、きれいに広く日本を
表現し、「真心と誇りをもって国と仲間を大切にしよう」という、当たり前であって大切な
ことを表現した歌であると小生は思う。4番まで含めて、「いつの時代にも通用する普遍的
な名作」であると思う。
敢えて言えば、ここまで見た上ではあるが、地名や表現だけを変にあげつらい、これを変に
「軍国主義を鼓舞する」という人の方が、「よほど人を信用していない好戦的な人だな」と
悲しくなる。
 
「蛍の光」の歌詞をこのように見ると、違って見えてくる。「別れの歌」ではなくて、実は
「力強く日本を表現した歌なんだ」と、今までとは違った親しみを覚える歌と思えるのだ。
先人たちの気持ちと言葉の表現の豊かさには、驚かされるし、感動もする。素直に読めば、
「国と平和を愛する歌以外の何物でもない」のである。
そんな先人たちの思いと表現の詰まった「蛍の光」は、現代にも、そしてこれからも、その
誕生の頃の先人の思いも含めて、4番まで歌い継がれていって欲しいと願う。