小澤さんによるレジュメ

【第1章】    死を忘れるな
1.最大の哲学問題は「死」である
・すべての人は死ぬ。死は哲学にとっての最大の問題。プラトンにとって哲学とは、「死」の練習。多くの哲学者たちも、醒めた目で死を直視しつづけた。

・(著者があまり好きではない)ハイデッガー:
人間存在を「死の存在」とみなす。=死の自覚が本来的な生き方。=「つねに死に関わっている」ということ。しかるに、日常生活は、自分をごまかして、なるべく「死」を直視しないようにしており、家庭、学校、社会において、非本来的な生き方を形作っている。

・自分が死ぬということの意味→自分が完全に無くなる現実。
「緑の地球を子孫に伝えよう!」 自分が死ぬという大問題を覆い隠す麻酔の役割。将来の地球の存続は、私にとって何の意味があるのか。→鈍感で欺瞞的な発言。

2.死の宇宙論
・私が死んだ後、宇宙的な億年単位の時間の経過の中で、この世界(宇宙)に絶対にふたたび生きるチャンスがないと実感することは、とても恐ろしいこと。宇宙論的な残酷さ。
・カミュの全作品は、日常の幸福を不意に略奪する「死」と向き合うが、死は不条理であり残酷である。それ故に、現実の太陽や海が、ため息が出るほど美しく、いとおしいものに感じられる。

3.なぜ「死」は悪なのか?
・「死」をまったくの「無」と前提。→「無」に戻る死とは、不幸な状態ではない。死をかわいそうと思うのは、死者を全くの無でない、何らかの存在として捉えていることの証。
・死は、有から無への転換であるゆえに悪。 死が全くの無であるならば、死者を悼む態度はおかしなこと。死者を何らかの存在ととらえることが必要。
・「死の準備教育」の必要性、死は絶対的な小学校低学年から懇切丁寧に教えるべき。

4.ある死刑囚の手記
加賀乙彦 小説「宣告」:死とは何かを考えさせてくれる襟を正し繰り返し読む価値あり。

【第2章】    哲学とは何でないか
1.哲学は思想ではない
・哲学:1つの強固な思い込みにより導かれる。誰でも真剣、徹底的に考えれば硬い岩盤のような問いにぶつかるであろう。誰でも、どの時代でも真剣に考え抜けば同じ疑問に行き着くと言う信念のもとに、徹底的な懐疑を遂行する事。

・思想:普遍的なものでも、時代、文化、地域的制約に影響される。時間、空間、物体といた膨大な信念を受け入れること

・哲学者でない人
丸山眞男(日本思想史の大御所)、丸山圭三郎(言語学者、徹底的懐疑が欠如)、上野千鶴子(社会学者)、橋爪大二郎、西部萬、 柄谷行人、中沢新一、浅田彰、今村仁司、三島憲一、トルストイ、ドフトエフスキー
・哲学は、数学・音楽・絵画などと同様な特殊な才能。哲学的でないことは、単にこうした能力が無いということであり、自分の洞察力・知性・学識・教養の否定ではない。

・本当の哲学者
プラトン、廣松渉、ニーチェ(永劫回帰)、
・哲学の敵は、「わかったつもり」になること。ニーチェの概念を解説的に「わかったつもり」で語る人は哲学者ではない。事柄事態を徹底的に考察する人が哲学者。

2.哲学は文学ではない
・吉本ばなな、村上春樹、島田雅彦、高橋源一郎、池澤夏樹→哲学的頭脳は見当たらない。
・三島由紀夫→理知的・論理的だが、全く哲学的でない
・芥川龍之介「鼻」、「芋粥」「蜘蛛の糸」→人生教訓が前面に出ていて、哲学的雰囲気は皆無
・堀辰雄→「哲学書は夜汽車の中で読むもの」←哲学には、甘く切ない雰囲気は必要ない。
・サン・テグジュペリ「星の王子さま」→子供らしくなく哲学的でない

哲学的な人
・高見順、ロルカ、3歳の子供
・ジェームズ・パリ「ピーターパン」→哲学的香りに包まれる
・アンデルセン「雪の女王」→最高! 「人魚姫」、「シンデレラ」
・宮沢賢治「銀河鉄道の夜」→哲学的雰囲気に満たされた純粋結晶
・ヘッセ「デミアン」→子供が新鮮な驚きの目で日常の周辺世界を見る→哲学的

3.哲学は芸術ではない
・名声を追わずに黙々と仕事に打ち込む伝統工芸職人、偏屈な庭師、孤独の陶芸家、妥協の無い料理人、・・・小林秀雄、白洲正子などは、ここに本物を見る→言葉や概念に向かう学者を徹底的に疑い嫌う態度に。

・物を制作する芸術家(梅原龍三郎、小磯良平、ピカソ)は、哲学者ではない。
ベートーベン、ワグナー:哲学的に見えて、全然哲学的でない。ワグナーの様に、思想が透けて見える芸術は哲学的でない。

・能・茶の湯・生け花・石庭・武士道など、日本の諸文化にまとわりつく「精神」も哲学的でないことを確信。

4.哲学は人生論ではない
・「いかに生きるべきか」は、哲学のテーマではなく、文学、宗教、芸術に共通の大きなテーマ。
人生論で使われる「よい」という意味を、哲学においては突き詰めて考えるべき難問。人生論者は、言葉遊びを嫌い、ただちに幸福を感じさせてくれる言葉のほとばしりを期待。
・自殺は、哲学の問い続ける活動を中断する暴力、思考の停止、哲学自身の否定。

5.哲学は宗教ではない
・宗教:生きる労苦(生。老・病・死)からの救済。思索や学問により達せられるものでは無く、広い意味での行為・修行によって達成。宗教の中心部には、排他性があり、哲学的な言語コミュニケーションを最終的に拒否する傾向。
・悟りには、それなりの意義を感じるが、筆者は体験が無いことから論じても虚しい。

6.哲学は科学ではない
・哲学の問いと、個別科学の問いは網の目の大きさが異なる。化学は客観性(同じ条件下においては、同じ現象が生じる)を求める。科学は、一般性に関心があり、個物性に向き合わない。哲学は、あくまで自分固有の人生に対する実感に忠実に、精確な言語によるコミュニケーションを求め続ける営み。

【第3章】    哲学の問いとはいかなるものか
・時間、因果律、魂、自由、意志、存在、善、美
これらが「何であるのか」の議論については、紀元前ギリシャ人より1歩も進んでいない。
「もの」に対する「こころ」へのこだわりが、科学者と哲学者を区分けする。

1.    時間という謎
・「過去」の想起は、現在行われること。
・筆者は、「明日の世界」について、虚無的。明日の世界の存在は保証されておらず、全ての物理的法則が一変する可能性もある。確率は不思議な概念。過去経験は、次の1秒後の世界ですら保証しない。
・アキレスと亀のパラドックス~解説本の説明に納得すれば、あなたの哲学は終わる。どの説明にも納得できず、「なぜか」を問い続ける限り哲学をする理由が存在する。非生産的、見通しの無い、病的な営みが哲学すること。

2.    因果関係と言う謎
・因果関係における原因の探索は、災いなど望まない現象の原因を除去することによる、回避の欲求。過去の出来事の原因を問うのは、取り返しのつかない腹の虫がおさまらない感情に決着をつけたい欲求(意志)に基づく。

3.    意志という謎
・意志とは、思うこと・心理的な作用ではない。意志は現実的力であり、具体的な行為を結果として生み出さない限り、意志とはされない。
・殺人事件においては、心理的に殺す意思はなくとも、数回にわたり首を絞める行為の側から、殺す意思が導き出される。「首を絞める意志はあったが、殺す意志はなかった」は、あり得るか?
・事故が発生すれば、その原因(飲酒、スピード違反)を究明し、こうした事象が無ければ、不注意を原因とする。事故が無い限り、こうした原因追及は行われない。背景にあるのは、過去の事象に対し清算を行いたいという態度の現れ。

4.「私」と言う謎
・大脳、神経などは全て物質。見える、聞こえるとは何か? こころとは何か。
→「心身問題」:非物質的「私=こびと?」は、いかに身体の一部に住みついているのか?
・独我論:全ての事象(私が見るもの、聞くもの。他人が見ているもの、感じているもの)は、「私の世界」。「私は眠い」≠「この身体は眠い」 身体+こころを持つ物体=「私」
・脳移植をした場合、移植前の「私」と、移植後の「私」は同一性を有するか? 記憶の連続だけでは、同一の「私」とは言えないのではないか。身体の連続的な同一性も必要か。

5.「他人」という謎
・自分の身体と他人の身体の区別により、自分の心と他人の心の区別を学ぶ。
・他者問題とは、他人に乗り移ることではなく、他人と一体になることでもなく、自分であり続けながら異質な他人を理解する事。「他人の痛む屋苦しみをわかる難しさ」を認識すべき。
・哲学は、他人との同調を抑制させる。日本では、「和」の尊重により、他人との同調を抑制する哲学議論が嫌がられる。「和」は哲学を栄えさせない。

6.    存在という謎
・「ある」という言葉の、うんざりするほど多様なあり方。コップがある。意志がある。時間がある。神がある。「ある」という言葉を自由自在に使用しながら、いざ反省してみると、うんざりするほどの多様なあり方に悩まされる。
・(1)論理学・数学における数、記号、(2)物理的対象物、(3)時間・空間・因果関係
における「ある」。+論者によっては、こころ、思惟、人間、神・・・
・こうした多様な場合において、我々は微妙な「ある」の意味を事実上了解していることは、不思議。