中谷ゼミ第84回勉強会メモ

日時;2023年12月15日(金) 18:00~19:30
アドバイザー:中谷常二先生
参加者 10名


課題図書
「すらすら読める徒然草」 吉田兼好、中野孝次著 講談社文庫 9~12章

 

 


概要 (〇 は中谷先生のファシリテーション)

第9章 よき趣味、悪しき趣味
 ●  9章は最近の若い子に読ませたいと思った。流行に踊らされている人が多い世の中、欠けている方が面白いという考え。ブランドではメゾン・マルジェラなど。
〇 面白い指摘。高いブランド物などを見せびらかす風潮に対する批判ともとれる。
 ●  持ち物を見ただけで、云々のところ、持ち物とはちょっと違うがTVインタビューなどで自室の後ろの本棚が映っていると並んでいる本を見て人となりが分かるような気がする。逆に自分の本棚を見られるのは恥ずかしい。
 ●  本棚は人の思想や背景を映し出すと言われる。冷蔵庫はその人の生活を映している(笑)
法律事務所だとちょっと前まで引退する先輩から古い本をもらってきて応接に並べるというようなことをやっていた。最近はWeb化されてそういうことはなくなったが、打合せ室に並べてあるということはクライアントに見せるためとはっきりわかる。
 ●  若かったころ、会社の法務の法律相談室の本棚にジュリストと判例時報が並んでいたが、本当に毎号熟読して内容を記憶していてあそこにあんな判例があったというような指摘をされたことがあった。後に法務部長になられた人でやっぱり違うなと思った。
〇 著者は見栄っ張りを嫌っていたのかもしれない。「揃える」というのもそれが目的になってしまうと必要でないものを揃えようとすることへの批判かも。
 ●  「さをり織り」という織物は中で一筋二筋糸が欠けていたり違ったりすることで風合いが出る。障害を持った方やきちんとそろえて上手に作れない人が作ったものがかえって味があると最近評判になっている。
 ●  自分の作る焼き物も不揃いになってしまうが、それも味とこの段を読んで意を強くした。
 ●  不揃いでも品があるものと単なるへたくそのとの違いは難しい。
 ●  81段と82段の微妙な違いということか。
 ●  ひとつ印象に残ったのは「つくり果てぬところを残すと」という表現。自分の家を建てたとき、あれもこれもと思うが、予算もありだんだん仕様が落ちていったが、敢えて作り果てぬところを残すのも正しい選択だったかと思おう。しかし、内裏というような正式な場所でも作り果てぬ、があるというのはすごいと思うし、スペインのサグラダ・ファミリアにも通じるところがあるのかも。
 ●  完全なものがちゃんとイメージできていて、そこを敢えて欠けさせるから余白があり余裕がある。完成形が見えていないのはダメといことかと理解。自分の家は完成形を作ってしまったので今になって建て替えたくなっている。
 ●  あいだみつをは素晴らしくきっちりした楷書体などの書を書いていたが、それから現在の一見下手文字に見える書に移っていったと言われる。これも完成形を知ったからこそできることなのかもしれない。しかし、その考え方からすると「さをり織り」はどう考えたらよいのかちょっと悩む。
 ●  芸術はなんでもそうで、基礎が完璧にできている人がちょっと崩すことで味が出たりするが、基礎ができていない人自己流でやってもへたくそなだけ。
 ●  さをり織りは障碍者が作った、というストーリーが付加されているところに意味があるかもしれない。絵画でもただの棒に見える絵でも、その絵画の歴史やストーリーを知って価値が出るという(参考URL: https://www.saorinomori.com/saori)。
 ●  モノ+ストーリーが最近の評価の基準にっているよう。
 ●  現代アートはストーリーとブランディング、そこにメッセージを伝えるところに価値を見出して高額で取引されたりしている。とそう考えると78段の流行をもてはやすな、というところには少し思うところもある。
〇 81段の下手なうえに下品な筆つき、しかもそれを麗々しく飾っている人、というのはどういう趣味の人をいっているのだろうか?
 ●  秀吉の金の茶室のように派手なだけとか、見栄を張っているのが見苦しく見えるし、そういうものを良いと思ってしまう心が下品ということか。ここで言っているのは趣味、芸術品のことで実用品のことではないのでは。
 ●  それにしても人の趣味についてそこまで言われたくないかな。誰もが良いというものもあるにせよ、自分だけ好きなものを飾ってとやかくいわれるのもどうか。
 ●  それだけ著者は自分の鑑識眼に自信があり田舎者を馬鹿にしてこの当時のハイソサエティの価値観を代表していたのだろう。
 ●  しかも金持ち。これだけしっかりしたもの、解説にある小林秀雄の椅子など絶対高価に違いない。
 ●  72段のごてごてした、というくだり、自分の部屋の状態を思って恥ずかしくなる。
 ●  一方で文車の文は多くても良いという。自分の一番大切にしているものについてはごてごて沢山あっても良い、としている。塵塚の塵、はナゾだが。
 ●  「自然と積もっていくもの」は良い、沢山あつめて自慢してやろうというものはダメ、という意味では。
 ●  家の中で子、孫が多いことまで一緒くたになっているのはやはりナゾ。子だくさんが金持ちの象徴だからか???

第10章 美とは何か
〇 249段の「秋の月」について、他の季節の月との違いは?
 ●  空中の水蒸気の量か?雲がかかることがあるからか。冬はくっきりしすぎる?
 ●  朝晩冷え込む、
 ●  作物が手に入って心が落ち着いているからか。月を見る余裕ができる季節なのかも。
<ここは大星さんの見解を聞きたいところ>
で、コメントいただきました。

お月様が上弦や下弦であれば、怒りで目を吊り上げたような形に見える人もいれば、垂れ目で微笑んでいるように見える人も居たりで、見る側の心象が反映されるものだと感じています。
兼好法師の見たお月様が中秋の名月だとすれば、旧暦の8月15日頃になります。
中秋の名月の時期を春夏秋冬の四季をさらに6つに分けた二十四節気で見ると、秋の始まりの立秋(8月7日頃から22日頃)の真ん中頃だとわかります。
二十四節気はお茶菓子とか和菓子の世界ではお馴染みですよね、お菓子から季節を感じるように。
話を戻して立秋の前は大暑(7月22日頃から8月6日頃)で夏の終わりです。さらに立秋の次の処暑(8月23日頃〜)は、暑さがおさまる頃なので、兼好法師の時代は現代のような猛暑や熱帯夜では無かったにせよ、中秋は暑い時期だというのがわかります。
そんな暑さが残る中秋の名月を見て、
①仏の道に帰依する者として、秋の気配を感じる心を育むことで仏の道に近づくという心の在り方を説いたもの。
②俺には教養があるんだという高飛車なオラオラ感から、お前ら中秋の名月の特別感を感じないのか、そんな心では仏の心に触れることはできないぞ!と、こきおろしたもの。
③心底月の美しさに感動し、周りに伝えてもわかってもらえない。月の美しさを語り合える同じ価値観を持った仲間が欲しかったのでそのような表現になった。
と想像します。

8月は葉が色づき始めるから葉月となったとされてますが、8月は猛暑で秋の気配などまったくありません。今の暖かい暑い涼しい寒いで季節を設定する感覚では無くて、当時は暦に従って気温関係なく淡々と季節が進む時代なので、「これから恵みの秋がやってきますよ」と、秋の気配を感じる前祝いみたいなものかもしれません。知らんけど笑
                                           以上感想でした。

 ●  祭りや花火を見に行くとき、そのメインを楽しみにしていくのか祭りの雰囲気全体を楽しみに行くのか。メインのイベントのみを楽しみにしていくのは違うというところはなるほどと思った。
〇 メインイベントだけではない、観光でも名所名物だけを見てそれだけで満足するのは違うかも、
 ●  最近はちゃんと見ることすらせず、写真を撮ってインスタに上げることで満足する、という風潮もある。
 ●  本当に写真を撮る人が多い。近くのバラ園でも写真を撮るために来ているような人が多い。
 ●  スポーツ観戦やコンサートではみなと一緒に応援したり、グルーヴを感じたりして楽しんでいるので少し違うかも。
 ●  写真を撮るが人ごみが嫌いなのであまり行かないが、イベントの写真係をたのまれたりすると近くの写真も引いた写真も撮って全体としてどういうイベントだったかが分かるようにとらなければならない。
 ●  自分で撮りたいものを撮る場合、頼まれて分かるように撮る場合等、場合によって組み立てが違う。
 ●  例えば花を撮るとき、その写真に何まで込めるのか。においや雰囲気まで?
 ●  最終的にはその花を見て自分が感じる美しさ、どう映るだろう、と感じたそのままを撮りたいと思って撮る。
 ●  お祭りはもともと豊漁を祝ったりするものと思っていて自分には関係のないものと思っていたが、これを読んでお祭りを見て楽しむということもあるんだ、と思った。また、見るのが目的であればテレビなどで人ごみなしに見れるので良いかと思ったりもするが、やはり実際に自分で行ってみたい自分がいる。コンサートや野球などの臨場感もそう。しかし、ただ見るだけの観光ならテレビでも良いのか、とも思ったりする。
 ●  祭りは基本的に人出や高揚感など全体の雰囲気を楽しみに行っている人が多いのではないか。
〇 雲の上に輝く月、などの著者の美学はどうか?見えないものを見る力が必要、皆が良いと言う完成形を超えたところ?
日本庭園と西洋の庭園は違う。西洋は幾何学的、シンメトリーなものを美しいとする。美しいと思わせる定式や黄金律、心地よさをもとにしているのか。
西洋庭園の基本ができたのはルネサンスの1300年頃なので著者の時代と同時期。何故こんなに違うのか。
西洋ではきれいで完全な形、一方日本ではそれをわざと葉を散らしたり、など。
人の顔の美醜も、本能的に感じるのではなく子供のころからそう教えられているからではないかと思っている。
インバウンドの外国人が日本庭園を美しいと思うのは廻りの皆が美しいと言うからなのか?それとも人類に普遍的な美のあり方がそこにあって、自分の感性でそう感じるからか。
今までのシンメトリーとは違うところに面白さがあると感じているのかも
島根の安達美術館の日本庭園は有名だが、どうすれば美しく見えるか計算しつくされたものと言われている。

第11章 ありがたい話
 ●  法然上人の話は何をやっても大丈夫、ということでほっとするというか、モチベーションを高めるやり方だと思った。
〇 僧侶の生き方求道ということか。著者自身ミニマリストやストイックということに価値を置いているとうことはあるかと思う。
 ●  法然も、親鸞の「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」にしても、どんどん往生のハードルを下げている。僧侶自身は道を究めるよう修行する一方、一般大衆への布教活動のためにハードルを下げることが必要だったのでは。それを著者はどう見ていたのか?
 ●  とにかくやれば良い、ダイエットにしても継続が必要。仕事上でも年末の追い込みでもあきらめるな、まだ間に合う、という言い方をする。
 ●  なるほど、目先の小さな目標を立て、達成しやすくしてモチベーションを維持させるということ?
 ●  著者は流行に右往左往するな、とか本質が大切といいながら宗教のところだけハードルを下げ安きに流れているのか?
〇 逆に念仏だけ唱え続けよ、ダメでももっとやれ、というストイックなことを言っているのでは。
全てを捨てて仏門に入れ、と言っている以上、やめてもらっては困るのでハードルを下げているのでは。
〇 この生き方を一番に置いていて、最終的に死んでいく人間の往生について常に念頭に置くという精神があるのでは。
 ●  ハードルを下げている訳ではなく、なんでも良いといっているのではなくいろいろな迷いがあってもやり続けなさい。寝ても良いが起きたら念仏を唱え続けなさい、ということでは。
 ●  もっと気軽に、寝てもいいから起きたらまたやればよいということかと思ったが。
 ●  そういう理解もできるように書いたのかもしれない。それでいて実は寝てもまた起きたら続けなさいという無限性。ある意味怖い。
 ●  一見ハードルを下げているように見えて、その実やることはやれ、ということか。なるほど。
 ●  親鸞の、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉は、若いころは何を変なことを言っているのだ、と思っていました。今回の法然の言葉についても、全く反対の解釈が成り立つ、という議論を興味深く聞かせていただきました。
これからさらに年を取っていくと親鸞の言葉の意味も悟ることができるようになるのかもしれないと思ってきました

第12章 実践的教訓
著者はずっと京都にいたと思っていたが、なにかで鎌倉にもいたという。どういう人だったのかがまだ分からないまま。
12章の127段に関連してソフトのバージョンアップをすると不具合が起こるので今困っていなければできればやりたくないという風潮があるが、それを続けるとまた進歩がなくなってしまう。どちらが良いのか。
〇 車のモデルチェンジでも繰り返すことで無駄が増える面もある。
 ●  補助金のためにモデルチェンジする、バージョンアップするということもあり、どこまでやるべきなのかむずかしいところ。
 ●  業務フローの改善でも根本的に変えようと思うと大変だし、変えて良くなるかどうかも不確実。どこまで今のやり方を踏襲してつぎはぎでいくか、抜本的に変えるかの判断は難しい。
 ●  家屋の夏を旨としてというところ、夏涼しい住宅は冬寒くエアコン代がかかる。地域の気候によるのではないかと考える。
 ●  保守の定義に「人間理性に対する懐疑」というのがある。革新は人間理性を信じてどんどん新しくしていくが、保守は変えることが本当に良いのか立ち止まって考える。そういう意味では著者はまさに保守なのかもしれない。

(文責 北村)