課題図書:講談社文庫 すらすら読める徒然草(中野孝次)


はじめに
本書に取り上げた59段は全てがわがものになりきったものばかりであり、全部が今に生きる言葉であることは自信をもって請け合える。
ただし、専門家から見たら恐ろしく偏ったものになっている。
序段つれづれなるままに自分の心と向い合うとき己が心と相対する ーP.14
「つれづれ」とは身を閑の状態に置き外部の物事との交渉を止め、己の内をのぞきこみ、完全に明確な意識をもって己と相対している状態であり、それが最善の状態である。
人はふだんは外界との応接に忙しく、しずかに己が心の声を聴く状態にない。
「世に従へば、心、外の塵に奪はれてまどひやすく」(第75段)である。
 

1 世俗譚
第85段奥山に、猫またといふものありて猫またの話
最高の短編小説。叙述のリズム、力強さ、印象の深さが兼好の文章の力、『徒然草』の力
第53段これも仁和寺の法師仁和寺の法師、鼎をかぶる
滑稽と悲惨が一つになった話。困惑しきった法師と頼りにならない医者の姿の対比
第50段応⾧のころ、伊勢の国より⿁になった女
実体が無い群衆の大騒ぎ。『徒然草』の名分の一つ
第236段丹波に出雲といふ所ありお上人さまと出雲の狛犬
感涙と実際との落差、虚と実を描く巧さ。
第115段宿河原といふ所にて宿河原のぼろぼろ
都と宮廷の話の多い兼好にしては珍しいテーマ。侠客の源泉?
第40段因幡国に、何の入道とかやいふ者栗しか食わない娘
小林秀雄「これは珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山な事を言はずに我慢したか」
第209段人の田を論ずる者その田を刈りて取れ
田の所有権の争いで負けた側の作男達が屁理屈をこねる。当時の現実の世相。
世俗譚、すなわち小説の傑作選 ーP.40
『徒然草』は順序も秩序もなく、兼好の心に映ったままを書き付けたから面白い
だが、やろうとしているのはまさにその『徒然草』の魅力を破るかもしれない秩序付けである
純然たる空想物語と、体験した話と ―P.48


推測ではあるが・・・
物事の騒ぎについて、聞くともなく聞いて、自分でそのさまを想像
兼好の人間への興味を持つアンテナは常に敏感に世の中に向って貼られていたのであり、それにたまたまひっかかったのがこれらの短編の話だった
原則としてすべて創作であり、材料はあったとしてもその光景を兼好は見たわけではなく、脳裡に思い浮かべた
第41段の話のように、兼好自身の体験の話の方は、どちらかというと理屈がちになる傾きがあり、教訓話、ないし世相批評の要素が強くなる
 

2 しばらく楽しぶ
第74段蟻の如くに集まりて東西に急ぎ、南北に走る人
第75段つれづれわぶる人はしばらく楽しぶ
第108段寸陰惜しむ人なし一瞬の時を惜しめ
第58段道心あらば心は緑にひかれて移る
第59段大事を思ひ立たん人は命は人を待つものかは
心の声を聴く生き方を ―P.73
ここに集めた文章群こそ、『徒然草』の中心をなす思想だ
真の悟りに達していなくても、俗世との縁を断って身を閑の中に置き、心を安らかに保つならば、それこそこの短い人生をしばらく楽しむと言える=悟りを開いた人と同じ生き方と言える(第75段)
なぜそうせねばらならぬかいといえば、それは老と死の来ること実に速やかだから、という認識(第74段)
死の来ることの迅速さという認識は、『徒然草』全体の基調低音のようなもので、いたる所でそれが鳴っている
死の来ることの迅速さ、人の営みの愚かしさの認識が、人はただちにすべてを捨てて道に入れという勧めになる
生きているかぎり、人はこの世のさまざまな係累にしばられて、あれをしておかねば、これをしておかねば、というようなことの絶える折りがない
全部を片付けてから道に入ろうとしてはダメで、中途半端でも何でも、ただちにうっちゃって道に入れ(第59段)
※ローマの政治家セネカも哲学を志す者に同じ内容を説いている
坊さんが決まりきった無常を説くのと違い、兼好自身の痛切な体験から発した声であり、何をよりも己れ自身に言いきかせる言葉だから読者の心に響く


頭で生きる生活(仕事・人間関係・利害得失の計算)から、心の声を聴く生き方に変えよ
まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ(第75段)
自然の中で鳥や風の音に耳をすまし、宇宙と一つになった己れを感じる
そういうとき、人はいかなる心配事からも離れ、自由で、恐れるものが何一つない
完全に自分自身と一つになり、自分を受け入れ、全的に肯定した心境になっている
悟りとはそういうことだ、という意味に著者は解して心の養いとしている
 

3 なんとなくいい話
第31段 雪のおもしろう降りたりし朝雪の朝のたより
こんな手紙をもらったらうれしかろう、という内容
第36段 久しくおとづれぬころ仕庁はおりませぬか
ちょっとした言葉遣いによって、人間関係が気持ちいものになる好例
第62段 延政門院ふたつ文字、牛の角文字
皇女(幼い子)のしゃれた歌
第37段 朝夕、隔てなく馴れたる人の「よき人」二題
何かの折に、他人行儀や打ち解けた調子で話す。人間関係はちょっとしたことで新鮮になる
第15段 いづくにもあれ旅の効用
遠国の大旅行ではなく、ちょっとした場所の変化で物が新しく見える
第75段 山寺にかきこもりて山寺参籠
これ見よがしに勤行するのでなく、自分一人で「心の濁り」を清くする。半僧半俗の自由な境界
日々を新しい心で生きる ―P.90
人の振る舞い・言葉の言い回し等のちょっとしたことで品よくしゃれたものにも、品悪く泥臭いものにもなる
そういう行動、表現の微妙なニュアンスについて、兼好は非常に敏感なセンスの持ち主だった
 

4 生死
第93段 牛を売る者あり存命の喜び
第112段 明日は遠き国へおもむくべし吾が生すでに蹉跎たり
第155段 世に従はん人は死期は序を待たず
第241段 望月の円かなることは心身永閑
第49段 老来りて、初めて道を行ぜんと無常を忘れるな
心身永閑 『徒然草』のモチーフ ―P.117
4章の文章は、2章の文章ととともに『徒然草』の中心を貫く思想
2章の文章が、一大事を思い立ったものはただちにそれを実行せよと進めるのに対し、
ここでは理由として、死の来ること速やかだからというその一事をいろんな角度から取り上げて説く
されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。(第93段)
この短い言葉は、そのままで一つの思想をくっりきと表している
強い言葉は毒のようにも作用しもするから、兼好はこの思想の表現の仕方にドラマ形式を選んだ
ドラマ形式の中の発言、世間一般の人には嘲られる、受け入れられな意見だったとして出しているからこそ、『徒然草』全体の余裕のある気分にも合し、人に受け入れられるものとなった
物事を根本から考える際、世間一般の価値観と自分とが違うのは必然で、どの時代・国でもこの対立はあった
日暮れ、塗遠し。吾が生すでに蹉跎たり。諸縁を放下すべき時なり。(第112段)
初めは客観的に諄々と道理を説いてきたのが、突然切迫した、激しい主観の表白となって人を驚かすが、強烈な主観の直言があるからこそ、文章は比類のない力強さ、言葉の喚起力、説得力を得た


第155段は、初めは世に従う人は「機嫌を知るべし」とおだやかな苦労人のようなことを言い出しながら、「まことの大事」の前には「機嫌をいふべからず」と否定、それから一転し、自然の推移についての観察となる
自然の秩序、序についての思考は、生老病死についてのみは序が無い
四季はなほ定まれる序あり。死期は序を持たず。(第155段)
秩序ある自然と、運命に弄られる人の命とをくっきりと対比させ、P.123の死はまえよりしも~に続く(著者は名分と評す)
第241、49段は、老い来って道を行じようなどと思わずただちに今それを始めろという考えを別の角度から説く
すべて所願みな妄想なり。(第241段)


ただちに万事を放下して道に向ふ時、障りなく、所作なくて、心身⾧く閑かなり。(第241段)
この「心身永閑」こそが『徒然草』全体を貫くモチーフである。
第49段は文章の切れ味がいささか劣り、世間並の常識をいっているかのよう(若い時の作?)