Nゼミ第79回勉強会レジメ

「プロタゴラス-あるソフィストとの対話」 プラトン(中澤務訳)

 

 

 

 

山本(将)さんによるレジメ

【主要登場人物】
・プロタゴラス … ソフィストの重鎮。アブデラ出身で、年齢は60歳に近い。ソフィストとしての長年の活躍で、ギリシャ中に名声がとどろいている。
         … 「人間は万物の尺度である」という成句で有名である。彼の著作の断片にあるのは、「万物の尺度は人間である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬということの」と言う文であり、つまり存在か非存在かは、それぞれの主観によって違ってくるのであり、絶対的、普遍的な真理は存在しないという、相対主義的な考え方、あるいは人間中心主義ということもできる。

・ソクラテス … アテネの哲学者で、この物語の語り手。さまざまな人々と徳(アレテー)をめぐる対話をしている。36歳くらい
        … 対話法による真理の探究をめざし、神話段階から自然哲学、ソフィストの弁論術を経て、人間の徳や魂のあり方に迫る「哲学」(フィロソフィー)の段階に高めたと言える。


【章構成】 ※前回は第4章まで、今回は第5章から
・プロローグ
・第1章 ヒポクラテスとの対話
・第2章 カリアス邸にて            ソ→プ 徳(アレテー)を教えることはできるか?
・第3章 プロタゴラス、徳を論ず        プ→ソ 徳(アレテー)は教えることができる
・第4章 プロタゴラスとの対話 第一幕    徳(アレテー)の間の関係について
・第5章 幕間                
・第6章 ソクラテス、詩を論ず        プ→ソ シモニデスの詩の矛盾点について
・第7章 プロタゴラスとの対話 第二幕    徳(アレテー)の間の関係について
・エピローグ


第5章 幕間(P108-)
・ソクラテス(P110-) だから、きみが、ぼくとプロタゴラスの対話を聞きたいのであれば、プロタゴラスのほうにたのんでくれないか。最初はぼくに、短い言葉で、質問されたことだけに答えていたが、そのやりかたを今後も踏襲して答えてくださいとね。そうしなければ、ほかにどんな対話のやりかたがあるというのだろうか?じっさい、ぼくは、互いに対話しながら議論することと、人々の前で演説することは、まったく別のことだと思っているんだよ。」

・プロディコス(P112-) プロタゴラスにソクラテス、わたし自身としても、あなたがたが和解して、この話題について互いに論議をしてほしいと思う。ただし、論争はやめていただきたい。(なぜなら論議とは友人たちの間で友好的になされるものだが、論争とは互いに中の悪い敵たちによってなされるものだからね。)そうすれば、われわれのこの会合は、最もすばらしいものになるだろう。なぜなら、そうすれば、あなたがた語り手のほうは、わたしたち聞き手から尊敬を勝ち取ることになる。賛美ではなくね。(というのも、尊敬は聞く人の心から生まれる偽りなきものだが、賛美は噓つきの心にもない言葉であることがしばしばだから。)

・ヒッピアス(P114-) だから、プロタゴラスにソクラテス、わたしはあなたがたに、お願いと忠告をしたい。あなたがたは、われわれを仲裁者と認め、妥協して互いに歩み寄りなさい。きみ[ソクラテス]のほうは、短い話をするという対話の厳密な形式を、プロタゴラスが好まない場合には強く求めてはならない。むしろ、言葉に対する手綱を放して緩めなさい。そうすれば、言葉はもっと威厳に満ちた優美な姿をわれわれに見せてくれることだろう。他方、プロタゴラスのほうだが、すべての帆綱を伸ばして順風の中を進んでいくのはよいが、言葉の大海のなかに逃げ込んで、陸地を見失わないようにしてほしい。そうではなく、両者とも中道をゆきなさい。


第6章 ソクラテス、詩を論ず(P118-)
・プロタゴラス(P118-) 「ソクラテス、わたしが思うに、人間教育における最も重要な部分とは、詩歌を解する能力である。それはどんなものかといえば、詩人たちによって語られた言葉について、正しく語られているものとそうでないものを把握できること、そして両者を区別して、質問されたら説明できるということだ。そういうわけで、わたしの質問は、わたしときみが今まで対話してきたのと同じ話題、すなわち徳(アレテー)についての質問なのだが、その領域は詩歌に移ることになる。しかし違いはそれだけだ。

(シモニデスの詩)
   ほんとうによい人になることこそ困難だ
   手足も心もまっとうな、欠点なき人となることは
       ・・・
   わたしには、ピッタコスのことも正しいとは思えない
   賢者によって語られた言葉だとしても
   彼は言うーー立派な人であることは困難だと

・プロタゴラス(P121-) 「どうすれば、この二つのことを言う人物が、一貫しているようにみえるというのだね?この人は、『ほんとうによい人になることこそ困難だ』と、はじめに自分で前提しておきながら、詩がすこし先に進むとそれを忘れてしまい、『立派な人であることは困難だ』と自分と同じことを言っているピッタコスを非難して、彼を受け入れないと言うのだよ。自分と同じことを言っているのにねえ。だが、自分と同じことを言う人を非難するとき、この人が自分自身をも非難していることは明らかだ。それゆえに、前の言葉か後の言葉のいずれかが間違っているのだよ」

・ソクラテス(P123-) 「さて、前のほうの詩句において、シモニデスはみずから自分自身の意見を表明したのではないでしょうか?すなわち、『ほんとうによい人になることこそ困難だ』とね。」
   ・・・(中略)・・・
 「ところが、シモニデスがピッタコスを批判するとき、ピッタコスは、プロタゴラスの考えるように、シモニデスと同じことを述べているのではなく、むしろ違うことを述べているのです。なぜなら、ピッタコスが『困難だ』と言ったのは、シモニデスが言ったように『立派なひとになること』ではなくて『立派な人であること』なのですから。
 プロタゴラス、このプロディコスが主張されているように、<ある>と<なる>は同じ意味ではないのです。そして、<ある>と<なる>が同じ意味でないとすれば、シモニデスは自己矛盾していないことになります。

・ソクラテス(P130-) では、シモニデスは、この詩で何を言おうとしているのか。この点をめぐるわたしの考えを、あなたにお話しすることにしましょう。あなたは、あなたが、<詩歌を解する能力>と呼ばれるものについて、わたしがどれくらいの力を持っているのか、試したいのでしょうからね。しかし、お望みなら、わたしがあなたのお話をお聞きしてもいいですよ。」

・ソクラテス(P137-) シモニデスが話をしているようにまとめるならば、彼は次のように言っています。
――よい人になることこそ困難なのだ、ほんとうに。もっとも、ごくわずかの間であれば、よい人でいることはできる。しかし、よい人になった者がその状態を堅持すること、すなわち、あなたの言う<よい人である>ということは、ピッタコスよ、不可能であり、人間にできることではない。むしろ、こんな特典にあずかれるのは神だけであろう。

   ・・・ソクラテスは詩の続きの部分についてさらに見事な解釈を披露した・・・
   ・・・(中略)・・・

・ソクラテス(P148-) プロタゴラス、あなたに最初に質問した問題を、あなたと一緒に最後まで考察できればと思っています。じっさいわたしには、詩歌について議論するというのは、低俗で卑しい人たちの催す酒宴にとてもよく似ているように思えるのです。そういう人たちは、教養がないものですから、酒盛りをするときに、自分の声と自分の言葉を使って、自分たちだけの交わりを楽しむことができません。
   ・・・(中略)・・・
しかし、立派なよい人たちで、十分な教養を持つ人たちが酒宴を催す場合、そこには笛吹き女も、舞い女も、琴弾き女も見出すことはできません。彼らは、そんなくだらない子どもじみたものなどなくても、自分たちの声を使って、十分に自分たちだけの交わりを楽しむことができるのであり、たとえたくさんの酒を飲んでいても、秩序正しく順番に話をしたり、聞いたりするのです。
   ・・・(中略)・・・
わたしたちは、詩人たちが述べていることについて、彼らに質問することができません。たくさんの人が話のなかで詩人を引用すれば、ある人たちは詩人の考えはこうだと主張し、またある人たちはいやこうだと主張して、決着をつけようのない事柄を論じるはめにおちいるでしょう。優れた人たちであれば、そんな会合にはさよならをします。

第7章 プロタゴラスとの対話(P152-)
・ソクラテス(P153-) じっさい、あなた以外に誰がいるというのでしょう?あなたは、ご自分のことを立派で優れた人物と自負しておられますが、それだけではありません。あなた以外の人たちは、自分を気高い人物と思っていても、他の人を気高い人物にする力はありません。ところがあなたは、ご自分が優れた人物であるばかりでなく、他の人を優れた人物にすることもできるのです。しかも、なんと自信に満ちあふれていることか。なにしろ、他の人たちはみな、この[ソフィストの]技術を隠しているというのに、あなたは、全ギリシャ人に対して公然と自己宣伝して、みずからソフィストを名のり、教養と徳(アレテー)の教師だと公言して、その報酬を要求した最初の人物なのですから。

・ソクラテス(P154-) わたしの質問は、たしかこのようなものでした。
――知恵、節度、勇気、正義、敬虔。これら五つの名前は、一つのものにつけられた名前なのか?それとも、それらの名前のそれぞれには、何か独自のありかたを持つもの、つまりそれぞれが自分だけの働きをもっていて、他のどれとも同様だとはいえないようなものが対応しているのか?

・プロタゴラス(P155-) 「それらはすべて徳(アレテー)の部分である。そして、そのうちの四つは、[きみとの議論で明らかになったように]互いにとてもよく似ている。しかし勇気だけは、それら四つのいずれとも全く違うものなのだ。
   ・・・(中略)・・・
人間のなかには、とても不正で、不敬虔で、節度を欠き、また知恵もないけれども、にもかかわらず、きわだって勇気のある人たちがたくさんいるのだよ。」

・ソクラテス(P171-) 「『そうすると、きみたちは、苦痛は悪いもので、快楽はよいものだと考えていることになる。たしかに、きみたちは、喜び自体を悪いものと呼ぶこともある。だがそのような場合には、それをした結果として、その喜びに含まれるよりも大きな快楽が奪われたり、そこに含まれる快楽よりも大きな苦痛が生じたりしているのだ。きみたちが、喜び自体を悪いものと呼ぶときに、何かそれとは別の基準に従い、何か別の結果に目を向けているのなら、きみたちは、それをわれわれに言うことができるはずだ。しかし、きみたちにはできないだろうね。』」

・ソクラテス(P172-) 「『そうすると今度は、苦しみ自体についても、同じことがいえるのではないだろうか?きみたちは、苦しみ自体をよいものと呼ぶことがある。だがそのような場合には、そこに含まれるよりも大きな苦痛が取り除かれたり、[そこに含まれる]苦痛よりも大きな快楽が生じたりしているのだ。君たちが苦しみ自体をよいものと呼ぶとき、ぼくが言う以外の何か別の結果に目を向けているのなら、きみたちはそれをわれわれに言うことができるはずだ。しかし、きみたちにはできないだろうね。』」

・ソクラテス(P177-) 「『違いといったって、まさか快楽と苦痛以外の点で違いはあるまいね。だって、これ以外の基準はないのだから。だから、そんなことを言ってないで、計量の上手な人がするように、快いことと苦しいことをそれぞれひとまとめにして、[時間的な]近さと遠さを考慮して天秤にかけ、どちらのほうがより多いかを[客観的に]判断するのだ。快いことと快いことを天秤にかけるときには、いつでも、より大きくて多いほうを取るべきだ。苦しいことと苦しいことを天秤にかけるときには、より少なくて小さいほうをとるべきだ。快いことと苦しいことを天秤にかけるときには、快いことが苦しいことよりも大きいならば、苦しいことが近くて快いことが遠い場合でも、苦しいことが遠くて快いことが近い場合でも、快いことが含まれた行為のほうをするべきだ。これに対して、苦しいことのほうが快いことよりも大きいならば、その行為をするべきではない。』」

・ソクラテス(P180-) 「『これで、ぼくたちの生活の安全を保障してくれるものは、快楽と苦痛の正しい選択のうちにあることが明らかとなった。そして、その選択とは、多いものと少ないもの、大きいものと小さいもの、遠いものと近いものの選択であった。だから、それがまず第一に計量の技術だということは明らかではないだろうか?なぜならお互いをくらべて、どちらが超過しているとか、どちらが不足しているとか、あるいは両者が等しいとかいったことを調べるわけだから』
『しかるに、計量の技術なのだから、それは必然的に技術であり知識でなければならない』」

・ソクラテス(P184-) 「そうすると、もし快いことがよいことなのだとすれば、自分のしていることよりもよいことがあって、かつそれをできると知っているか思っている場合、よりよいほうができるのに、なおもその行為を続けるような人は、ひとりもいません。そして、<自分に支配される>という事態は、まさしく無知にほかならず、<自分を支配する>という事態は、まさしく知恵にほかならないことになります。」

・ソクラテス(P193-)
「そうすると、<恐ろしいものと恐ろしくないものについての無知>が臆病であることになりますね。」 
彼はうなずいた。
ぼくは言った。「ところが、勇気は、その臆病の反対物なのです。」
彼はそうだと言った。
「さて、<恐ろしいものと恐ろしくないものについての知恵>は、そのようなものについての無知の反対物ではありませんか?
   ・・・(中略)・・・
「それでは、あと一つだけ、あなたに質問させてください。あなたはいまなお、最初におっしゃったように、きわめて無知であるにもかかわらず、きわだって勇気のある人がいるとお考えでしょうか?」

・プロタゴラス(P195-) 「すでに同意されたことから考えれば、そのようなことはありえないと思う。」


第7章 エピローグ(P196-)
・『ソクラテスにプロタゴラス、あなたがたは、まったくおかしな人たちだよ。きみ[ソクラテス]のほうは、最初のうちは、徳(アレテー)は教えることができないと言っていた。ところがいまは、その自分の意見に反対のことを熱心に主張して、正義や節度や勇気などのすべてのものが知識であることを証明しようとしている。だが、そんなことをすれば徳は教えることができるということがきわめて明白になってしまうのだよ。プロタゴラスが言おうとしていたように、徳が知識とは別のものであるとすれば、それを人に教えることができないことは明らかだ。ところがソクラテス、いまきみが熱心に主張しているように、徳はその全体が知識だということが明らかだとしたら、それを教えることができなければじつに不思議なことになるよ。
 これに対して、プロタゴラスのほうはといえば、さっきは徳は教えることができるとしていたのに、いまでは反対に、とにかく何でもいい、それは知識とは別のものだと熱心に主張しているようにみえる。もしそうだとしたら、それは最も教えられそうにないのものになってしまうのにね。」

以上