大星さんの個人的メモを転載させていただきます。

 

〇 考え方の基準を与えるのは倫理学である。

〇 この本を通じて、現在起きている問題に対して、考え方を整理する力を身につけることができる。コロナを例に出すと、Go to 政策は功利主義的、感染拡大を防止するために家に居なさいは義務論的などである。議論を整理して分析することでヒステリックな議論にならずに済むのではないか。

〇 倫理学には道徳哲学という考え方がある。また道徳と倫理は違う。

〇 コールバーグの見解は、今ではほんまなん?となっている。分類が雑なのと、男女間で差があるのか?という疑問。

〇 ケアの倫理とは言い換えれば愛の倫理である。特別扱いしても良いという公平性とは違う価値観がある。

〇 看護師はケアの倫理を学ぶが、看護業務に就くのは義務でしているのではない。

〇 功利主義や義務論等の学説がどう正しいと主張されてきても、どれが正しいのかわからない。徳倫理学は、正しいことをすることが正しいとされる。

 

〇 グルメが勧める料理は美味しい

 良い大工が建てた家はいい家

 茶碗は所詮茶碗

 

〇 第十二章は、様々な説が紹介されているが、どっちがいいか悪いか言えないよね、という章。そのような見方で読み進めていけば深みにはまらなくて済む。

 

〇 教祖は信者にとっては常に正しい。だがそれは哲学とは違う。

 

〇 第四節 徳と行為(2)の(b)が、徳倫理に関しては主流になっている。

 

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大星さんによるレジュメ


『新版 現実を見つめる道徳哲学 安楽死・中絶・フェミニズム・ケア』
左 ジェームズ・レイチェルズ(1941年5月30日-2003年9月5日)
右 スチュアート・レイチェルズ(1969年9月26日−     )


第十一章 フェミニズムとケアの倫理(147頁~)
 

ヴァージニア・ウルフ(1882年1月25日-1941年3月28日)
 女性の価値観が男性の価値観としばしば異なるのは自明だ。当然であろう。しかし支配的なのは男性の価値観なのだ。ヴァージニア・ウルフ『自分自身の部屋』(1929)                          
経済的自立と精神的独立を主張し、想像力の飛翔と軽妙な語り口によって、女性の受難史を明らかにした軽妙な長篇エッセー。フェミニズム批評の古典とされる。


第一節 男女間での倫理観の相違
男女間での考え方の相違は伝統的に女性への侮辱と軽視の為に用いられてきた
女性は男性ほど理性的では無いから、男性が女性を支配するのは当然である。
アリストテレス(前384年-前322年3月7日)
↓同意
女性は「市民としての人格」を欠いているので、公共生活では発言権を持つべきではない。
イマヌエル・カント(1724年4月22日-1804年2月12日)
「男女は長所が異なるだけ」と力説して、女性のご機嫌取りをした。ただし、男性の長所はリーダーシップを発揮することであり、女性の長所は家事に勤しむことであった。
ジャン=ジャック・ルソー(1712年6月28日-1778年7月2日)
 

 以上のような背景から、1960年代と1970年代の女性解放運動の際に「男女間には心理的違いがある」という見方は拒絶された。男は理性的で女は感情的という見方は固定観念として斬り捨てられた。自然は両性の間にいかなる精神的区別も道徳的区別も設けていないとされ、相違があるように見えても「女性らしく行動しなさい」という社会的抑圧による条件付けに過ぎないとされた。


 しかし近年、大半のフェミニズム思想家は「男女で考え方が違う」「女性が劣っているわけではない」と信じている。女性の思考法は男性優位の分野で見逃されてきた洞察をもたらす。女性特有の取り組みに方に注目すれば閉塞状況を打開できる。倫理はその有力候補と言われている。
コールバーグによる道徳発達の諸段階(148頁上段1行目~)
ローレンス・コールバーグ(1927年10月25日-1987年1月19日)による「ハインツのジレンマ」(148頁上段4行目)
子供の道徳の発達を研究する為に用いた難問。子供たちの反応の分析から道徳の発達には六段階あると結論した。子供たちはこれらの段階を経て「正しさ」の観念を形成する。


第一段階 権威への服従と処罰の回避。
第二段階 公正なやりとりを通じた、自分および他人の願望の充足。
第三段階 人間関係の構築と、自分の社会的役割に見合った義務の遂行。
第四段階 法の遵守と集団の福利の維持。
第五段階 基本的権利と社会の価値の擁護。
第六段階 抽象的で普遍的な道徳原則の固守。
11歳の少年ジェイク 薬を盗んでも人命には変えられない。
 「人命は金より価値がある」という非個人的原則に訴えている彼は第四段階以上の思考。
11歳の少女エイミー 盗む以外の方法を見出したい。
 個人的関係を最優先する彼女は第三段階で考えている人の典型。


ギリガンの反論(149頁下段9行目~)
1950年代に道徳発達の研究を始めたコールバーグによる人間重視の認知研究は魅力的であったが中心思想には欠陥があった。異なる年齢で子供の思考の実情を観察する研究と、思考様式を善悪で評価する研究には別種の根拠が求められた。
発達心理学者のコールバーグの学生であったキャロル・ギリガン(1937年11月28日- )は1982年に『もう一つの声ー男女の価値観のちがいと女性のアイデンティティ』にてコールバーグの説明に異論を唱えた。
 エイミーは女性に典型的に見られる当の状況の個人的側面に反応した。
 ジェイクは男性的な考え方をしていて「論理的演繹によって解決可能な人命と財産の板挟み」しか見ていない。ジェイクの反応が「より高度な段階」と評価できるのは、コールバーグのように「原則重視の理論」が「親密さと気遣い(ケア)の倫理」より優れていると想定した場合のみなのだ。
道徳哲学者が「原則重視の倫理」を好んできたのはほとんどの道徳哲学者が男性だったからに過ぎない。
 「男性的思考様式は」「非個人的原則」を拠り所にするが特別な意味合いを持つ個々の状況を捨象してしまう。女性は状況の細部を切り捨てるに忍びない。女性の道徳の基本方針は「気遣い(ケア)」である。
ヴァージニア・ヘルド(1929年10月28日- )は、この中心思想を「気遣い・感情移入・他人への共感・互いの感情への感受性などはどれも、理性の抽象的規則や合理的計算よりずっと現実に即した道徳の指針となるであろう。あるいは少なくとも、妥当な道徳に不可欠の構成要素となるであろう」と要約している。
 この考え方は実に女性的である。男女間では倫理についての考え方の差はあるのか、あるとしたら理由は何なのか。


男女の考え方の差(151頁上段9行目~)
 ギリガンの著書の出版以来、心理学者は「社会的性(ジェンダー)」「感情」「道徳」に関する何百もの研究を行ってきた。
女性の方が個人間の関係に親密な気遣いをするようである。
男性は薄い人間関係の広いネットワークに配慮をする。

ロイ・バウマイスター(1953年5月16日- )
「女性は狭い範囲の親密な人間関係が得意で、男性はより大きな集団と付き合うのが得意なのだ」
 
 百八十の研究の再調査を行なった学術論文によると、女性の「気遣い(ケア)重視」は男性をわずかに上回る程度に過ぎず
男性の「正義(ジャスティス重視)」も女性をわずかに上回る程度に過ぎなかった。
以上に対する社会的説明。(151頁下段19行目~)


 女性の「気遣い(ケア)」重視はたぶん社会的役割に由来する。家族の世話をしてきたことで「気遣い(ケア)の倫理」が育まれた経緯を理解することは容易で「気遣い(ケア)の視点」は少女が受ける心理的な条件付けの一部と言えそうだ。
 遺伝的説明では、男女の性差の中には幼児期から目立つものもある。生まれつき女性は男性より社会性があるということである。


チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809年2月12日-1882年4月19日)
ダーウィンの進化論はある洞察を示している。1970年代に進化心理学の研究者はダーウィンの「生存競争」の考え方を人間本性の研究に応用し、「多数の祖先の生存と生殖を可能ならしめた感情や行動傾向を現代の人間は受け継いでいる」とした。
 男女間の重要な差は、男性はなるべく多くの女性に妊娠させ、我が子の養育よりも新しいパートナーを見つけることにエネルギーを注ぎ、女性は産んだ子に重点投資をすること。これが男性の性欲が女性より強い理由であり、人間関係一般への態度に男女差がある理由。ポイントは自分の遺伝子の増殖を意図的に計算していることではない。人間の願望は進化の産物である。それらを意図的に行うことは倫理的観点から言えばすべきではなく、要点は観察結果を説明すること。

 


第二節 道徳的判断にとっての意味(153頁)
「ケアの倫理」の哲学は現代のフェミニストの哲学にきわめて近い。
アネット・ベイアー(1929年10月11日-2012年11月2日)
「ケアは新しいキャッチフレーズである」
 しかし、多くのフェミニストは、男も女も現存する女性への不正義を解消しようとしている人たちに過ぎない。必ずしも「ケアの倫理」を信奉していることにはならないが、「ケアの倫理」は功利主義や社会契約説などの代替案になる。倫理説の理解の一方法として「その説を実行したらどうなるか」を「ケアの倫理」と「男性的倫理観」とでは具体的にどのような差が出てくるのか。以下に三つの例を取り上げる。
 

家族と友人(153頁下段4行目)
 家族との暮らしや友人との付き合いの説明に不向きな伝統的な義務論は「何を為すべきか」を道徳の基礎とみなす。さらに義務論に浸透している「平等」と「公平」の概念は「愛」や「友情」という価値と鋭く対立する。

ジョン・スチュアート・ミル(1806年月20日-1873年5月8日)によると、道徳的行為者は「利害関係がなく慈悲深い傍観者のように厳格に公平」でなければならない。
 これは親や友達の立場ではない。家族や友達は巨大な人類集団のメンバーとは見なされない。
親や友達は特別なのだ。
 一方、「ケアの倫理」では「義務」「責務」を基本的なものと考えない。万人の利益の公平なる促進も求めない。特別な人間との関係ネットワークこそ道徳的生活だと考えることから始めるからこそ、「原則重視の倫理」より「ケアの倫理」が友達や家族との道徳的本性をうまく説明できる。それらは、驚くことでもない。これらの人間関係が「ケアの倫理」の発想の源だからだ。


HIVの子供たち(154頁下段18行目)
 世界中には十五歳未満のHIV感染者が約二百万人おりユニセフ等の支援を受けて治療を受けているのは三分の一に過ぎない。功利主義などの伝統的な「原則重視の倫理」は、「ユニセフを支える相当の義務がある」と結論づける。
「ケアの倫理」では小規模の個人的関係に焦点を合わせているので、」そのような人間関係がなければ「ケア」もありえない。
 
ネル・ノディングス(1929年1月19日- )の説明によれば、「ケアの関係」が存在しうるのは、「ケアされる者」と「ケアする者」が交流できる場合のみである。「相手側に応答の可能性がないならば、我々には『ケアする者』として行動する義務は生じない」だからこそ「遠隔地の困窮者」に援助する義務はないと結論する。
 倫理の全部を個人的に還元するのは、それを全部無視するのと同じく間違っていると思われる。
倫理的生活は「ケアする人間関係」と「人間一般に対する慈善的関心」の両方を含んでいるとするのがもっといいだろう。「ケアの倫理」は伝統的理論の代替案ではなく「補完」として解釈できる。最終的に女性理論家の『愛の倫理』と男性理論家の『義務の倫理』を結合する必要に迫られる。


動物(155頁上段18行目)
 人間は動物に対する義務があるのか。1970年代に「動物の権利運動」が始まって以来、この種の議論に納得した人たちが菜食主義者になった。
(1)「ケアの倫理」は原則ではなく「直感」と「感情」に訴える。大半の人は肉食は間違いとも家畜の苦しみは重大とも感じていない。

動物に対するわれわれの感情的反応と人間に対するわれわれの感情的反応は異なることにノディングスは気付いている。
(2)「ケアの倫理の基本思想」の二つ目は個人的関係の優先である。人間とペットの間にならこの種の関係を築けるとノディングスは信じている。ペットと親密な関係が形成されると「ケアの態度」が呼び起こされるが、牛舎でぎゅうぎゅう詰めの牛とは親密な関係は築けないのでノディングスの結論は「われわれには肉食を控える義務がない」となる。


「ケアの倫理の基本思想を検証」
(1)直感や感情は信頼できる指針ではない。かつて直感は「奴隷制は認められる」「女の男への従属は神の計画だ」と告げていたからだ。

(2)動物がまるで「人格を持っている」かのように反応するというのは、人間側の自己満足にすぎず、動物自身の要求とは無関係だろう。また同じく遠隔地に子供がHIV陽性で苦しむかどうかは、感染予防の尽力者への「個人的な感謝の念」とは無関係なのだ。
 これらの反論には、「男性的推論」に典型的な「原則重視」の姿勢が見られる。「ケアの倫理」が道徳の全部であればこれらの反論は無視され、「ケア」が道徳の一部であれば「原則重視」の議論も説得力を保つ。家畜も道徳的関心の対象になりうるのは「ケアする関係」が家畜との間に形成されるからではなく、われわれが苦や残酷を忌むからだ。


第三節 倫理説にとっての意味(156頁下段9行目)
 男性の倫理説は公の生活を支配してきた歴史がある。男性型の理論は「非個人的義務」「契約」「競合する利益の調整」「損益計算」などである。
 フェミニストは「道徳哲学は男性的偏見に満ちている」と糾弾する。友達や家族などの小規模の世界では取引や計算は大きな役割を果たさない。「愛情」や「ケア」の方が支配的となる。
 私的生活を伝統的理論に組み込むのは簡単ではない。「愛情深く忠実で信頼しうる」とは「人物のタイプ」を表しているのであって、公平に「自らの義務を遂行する」こととは違う。
(1)「徳倫理」によれば、道徳とは「性格(キャラクター)の特徴」を有することだ。「親切」「気前」「勇敢」「正当」「慎重」などである。
(2)かたや「義務論」は公平な義務を強調する。それが描く道徳的行為者とは、理性の声に耳を傾け、為すべき正義を計算し実行する主体だ。
 公的生活と私的生活の価値を調停するのに最適なのは徳理論だという主要議論がある。公的生活では「正義」と「慈善」が、私的生活では「愛情」と「ケア」といった異なる「徳」が求められる。それゆえに「ケアの倫理」は徳理論の一部と見るのがいいだろう。「ケアの倫理」の評価は究極的にはより広範な徳倫理が実現できるのかということにかかってくる。

 


第十二章 徳倫理(158頁)
ベンジャミン・フランクリン(1706年1月17日-1790年4月17日)
 豚の卓越性は肥満で、人間の卓越性は徳だ。『貧しいリチャードの暦』(1736)
フランクリンによって1732年から1758年まで発行された暦のような出版物。


第一節 徳倫理と正しい行為の倫理
 
 何を考えるにせよ、どんな問いから始めるかが大切である。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(紀元前325頃)の中心問題は「性格」である。人間の善は徳と一致した魂の活動であり、「勇気」「自制」「気前」「誠実」といった性格の特徴を論ずることで倫理に迫った。
 しかし、時を経て、キリスト教の到来と共に新しい思想が登場した。神を立法者と見なすユダヤ教徒もキリスト教徒も「神の法」への服従こそが生き方の伴だった。

 ギリシア人にとっては「有徳なる生き方」とは「理性の生活」と不可分だったが、聖アウグスティヌス(354年11月13日-430年8月28日)は理性を疑い、道徳的善は神への服従だと信じていた。かくして中世の哲学者たちは「神の法」の脈絡で行われるようになり、「信仰」「希望」「慈善」「服従」といった「神学的徳」が脚光を浴びることになった。
 ルネサンス(1400年-1650年)以降、道徳哲学は世俗化したが哲学者たちはギリシア的思考法には戻らなかった。「神の法」は「道徳法」に置き替えられ、神ではなく人間理性に由来する「どんな行為が正しいか」を指定する規則体系であった。道徳的人間はこれらの規則に従うこととされ、古代人とは根本的に異質の問いかけをした近代の道徳哲学者たちは「善き人物の性格にはどんな特徴があるか」と問わないで「為すべき正しい行いは何か」と問うた。こうして「徳の倫理」ではなく「正しさと義務の理論」を発達させるに至った。十七世紀以来、道徳哲学を支配してきた理論には以下の4つがある。
(1)倫理的利己主義 自己利益を最も促進することを為すべき。
(2)社会契約説 理性的で利己的な人たちが相互利益のために合意する規則の順守こそ正しい行為。
(3)功利主義 最大幸福を促進することをすべき。
(4)カント説 普遍的法則として容認可能な規則の順守こそが義務。つまりどんな状況でも万人が従うことを意思できるような規則の順守。


徳理論への回帰(159頁上段19行目)
 近年、多くの哲学者が過激思想を提唱した。道徳哲学は破綻したので、アリストテレスの思想に回帰すべきだと。この思想が提案されたのはアンスコムによる「近代道徳哲学」であった。
ガートルード・エリザベス・マーガレット・アンスコム(1919年3月18日-2001年1月15日)
 アンスコムによれば「立法者不在の法」というつじつまの合わない概念に依拠しているから近代の哲学は見当違いをしている。「責務」「義務」「正しさ」という概念は、この自己矛盾した概念と不可分であるから、それらについて考えるのを止め、諸々の徳こそが表舞台に復帰すべきなのだとアリストテレスの思考法に回帰することを訴えた。それ以降、徳倫理は主要な哲学説の仲間入りをした。


第二節 様々な徳(159頁下段16行目)
徳理論を構成する要素
(1)徳とは何かの説明。
(2)徳のリスト。
(3)徳の具体的事例。
(4)徳が善である理由。
(5)徳は誰にとっても同一か。人ごとに、文化ごとに違うか。
徳とは何か(160頁上段5行目)
 アリストテレスによれば、徳とは「習慣的行動に現れた性格の特徴」である。ただし、徳の定義には価値評価を含む必要性があり、「徳は善で悪徳は悪」となる。つまり、「習慣的行動に現れた称賛すべき性格の特徴」となる。有徳なる性格とは通常われわれが憧れる性質であり、悪徳とは嫌うべき性質である。

エドムンド・ロイド・ピンコフス(1919年6月7日-1991年没年月日不詳)は、「ある種の人物は好かれるが、他の種類の人間は嫌われる。徳と悪徳のリストに掲載される諸性質は好き嫌いの理由にもなっている」と述べている。
「道徳的徳」とは「人物そのものの徳」のことであり、次のように定義できる。「道徳的徳」とはどんな人物がそれを所有しても善であるような性格の特徴である。ただし習慣的行動に現れたものに限る。


徳のリスト(160頁下段19行目)
慈善 公正 慎重 丁寧 友好 分別 同情 気前 見識 良心 正直 自制 協調 正義 自立 勇敢 忠実 機転 信頼 節度 思慮 勤勉 忍耐 寛容


徳の具体例(161頁上段12行目)
(1)勇敢(161頁上段18行目)
 アリストテレスによると、徳は両極端の中間である。つまり徳とは過剰の悪徳と欠如の悪徳の「中間」なのだ。「勇敢」は「臆病」と「蛮勇」の中間である。
兵士の「勇敢」は「武徳」と言われることもある。兵士に限らず、誰も皆「勇敢」である必要があるが、謝罪・望まない善意を怯まず引き受けること・悲嘆にくれた友達に面と向かって事情を訊く等、愉快ではない状況に臨む勇敢さも求められる。
 問題含みの事例として、アメリカ同時多発テロ事件(2001年9月11日)の際に、十九人のハイジャック犯が約三千人を殺害した。悪しき目的であっても即死を厭わなかった彼らは勇敢だったのか。
 ウィリアム・”ビル”・マー(1956年1月20日- )は「勇敢だった」とそれとなく言った。彼は正しかったのか。(当時「臆病者のテロリストたち」と発言したブッシュ大統領に対して、遠くから巡航ミサイルを放つアメリカ人を揶揄したものか?)
 哲学者のピーター・トマス・ギーチ(1916年3月29日-2013年12月21日)なら「無価値な目的での勇敢は徳ではない。ましてや悪しき目的の勇敢はもっと徳から遠い。わたしは徳を欠いた即死の覚悟を決して『勇敢』などと呼びたくない」と考えるだろう。
テロリストを「勇敢」と呼ぶのは、テロ称賛と思われる。危機に直面した時の当人の行動を見てみれば、このジレンマを解消するために必要なのは「性格には二種類ある」のを理解することだろう。


「称賛すべき性格」(危機に臨んでの堅忍不抜)
「嫌悪すべき性格」(無辜の民の躊躇なき殺害)
 マーが言ったように、テロリストは「勇敢」だった。勇敢は確かに善であるが、テロリストの勇敢は悪しき目的のために発揮されたものなので、彼らの行為は概して「極悪」なのだ。


(2)気前(162頁上段17行目)
「気前の良さ」とは、自分の時間・お金・知識などを出し惜しみしないこと。アリストテレスによると気前よさも「吝嗇(りんしょく)」と「浪費」の中間なのだ。気前のよい人物は適正な量だけ出す。しかし適正な量とは。

ナザレのイエス(紀元前4年から6年頃-紀元後30年頃)は「あなたがたが持っている物全てを貧者に分け与えなさい」と言った。イエスは「飢えている人たちがいるのに、財産を所有するのは間違いである」と考えた。イエスの話を聞いたものは厳しすぎる要求に概して逆らった。それは今日でもイエスを礼賛する人たちの中でさえほとんどいない。
近代の功利主義者たちは「どんな場合でも全体として最善の結果になる行いなら何でもするのが義務」と考えていた。これは「他人を助けた善より自分の被る害悪の方が大きくなる寸前まで自分のお金を出し続けるべき」ことを意味する。
 なぜ人々はこういう思想に反感を持つのか。理由として残るのは自己利益であろう。われわれの生活はお金・時間・努力などを相当量注ぎ込まなくてはならない計画や人間関係から成り立っている。気前よさの理想は要求が厳しく、行き着くところ聖人君子になってしまう。
 気前よさの合理的解釈は、われわれは普通の生活を送れる範囲内でなるべく気前よくあるべきである。気前よさの徳には豪勢な生活の中にはありえないので「普通の生活」が甚だしい浪費を伴うものであっては困るのである。


(3)正直(163頁上段19行目)
 正直な人とは何より嘘をつかない人である。嘘だけが人を惑わすわけではない。ギーチは聖アタナシオスの逸話を取り上げている。
アタナシオス(296年から298年頃-373年5月2日)
聖アタナシオスが「川舟を漕いでいると、反対方向から迫害者が舟で追って来て、『裏切り者のアタナシオスはどこだ』と訊いた。聖アタナシオスは『そんなに遠くには言ってないよ』と陽気に答え、何食わぬ顔ですれ違って行った」。(←「 」。↙?)
 ギーチは「露骨な嘘」は認めていないが、アタナシオスの「巧妙な手口」は容認している。アタナシオスは追っ手にさえ嘘をつかなかった。巧妙な手口で欺いただけである。「欺き」は不正直ではないのか。人を惑わす行為のうちに不正直なものと正直なものがあるのだろうか。
 この問いに答えるには、正直が徳である理由について考える必要がある。
(a)マクロな理由 「文明社会は正直によって成り立っている」
(b)ミクロな理由 他人の言うことを真に受けたら、無防備になる。他人が誠実である限り問題はないが、他人が嘘つきだと、馬鹿を見る。不正直は他人を巧みに操ることで、正直は他人を尊重することである。
以上が「正直は徳」と言うことを説明しているなら「嘘」も「他人を欺く真実」も「不正直」となる。正直な人は決して嘘をつかないというのは本当だろうか。徳とは絶対的規則を墨守することなのだろうか。
(a)正直な人物は決して嘘も言わないし欺く真実も言わない。
(b)正直な人物は、止むに止まれぬ稀な理由のある時以外、決して嘘も言わないし欺く真実も言わない。
 嘘の問題について(b)を選ぶ正当な理由がある。
 第一に、価値あるものは正直だけではないことを想起しよう。特殊な状況では他の価値が優先されることもある。例えば「自己保存」の価値だ。
 第二に「正直者が善である理由」を考えてみよう。円滑な社会活動の邪魔をしていなければ嘘をついても間違いではない。「嘘が信頼の棄損だとしても、『嘘は不道徳だ』と非難しうるためには、そもそも騙す対象の方がこちら側の信頼にふさわしい人物である必要がある」というもの。

おまけ 正直とは何か
論語巻七子路第十三之十八
葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子曰、吾黨之直者異於是、父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣。
葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾(わ)が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて。子これを証す。孔子曰わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。
葉公は孔子に話した。「私の地方に正直者がいます。その男の父が羊を盗んだのを子が証明した。
孔子は「私の地方の正直者は、それとは違う。父は子のためにその罪をかくし、子は父のためにその罪をかくす。正直さとはそこにあるのではないか」


(4)家族と友人への忠実(165頁下段3行目)
 友情は善き人生に不可欠だ。アリストテレスが述べたように、「他の全ての善を持っていても友人なしの人生を選ぶ者などいない」のである。友情の利益は物質的支援を遥かに凌駕する。われわれの自負心の大半は友人が与えてくれる自信に左右され、人間としての自分の価値を実感させてくれる存在となる。
 「友人たる」ことには然るべき性格が必要になる。互いに寄り添い、許し合い、冷徹な真実を教える「忠実」という性格。友人に対する忠実が大事であっても、見知らぬ他人に対する義務が不要ではない。他人への義務は友人への義務とは異なる。世間一般に対する慈善は徳の一種だが、見知らぬ人にも友人にも同じ配慮をするのは荷が重すぎる。そうした徳として正義がある。万人を公平に扱うことを求めるが、友人が関わると弱くなる。友人への忠実とは、少なくとも部分的には「不公平」な扱いをするものだ。
 友人よりも家族のほうがもっと親密だ。友人よりも強く忠実の気持ちを感じるものだし、「えこひいき」もする。
プラトン(紀元前427年-紀元前347年)の『エウテュプロン』において、ソクラテスはエウテュプロンの実父が殺人で訴えられた際に、エウテュプロンが不利な証言をするために裁判所に来たことを知る。ソクラテスは仰天するが、エウテュプロンは殺人は殺人であって何の不正もないと思っている。
 エウテュプロンにも一理あるが、赤の他人と全く同じ態度を実父にも取れる人がいたらたまげるだろう。裁判での証言において、親密な家族が関わるケースは例外と考えられ、アメリカの法律では夫や妻に不利な証言を法廷で強いることはできないとされている。


徳が大切な理由(166頁下段10行目)
 徳とは善なる性格の特徴である。「なぜ徳は善なのか」答えは徳ごとに違ってくる。
(1)勇敢が善なのは、危険に対処する必要があるからである。
(2)気前のよさが望ましいのは、助けが必要な人たちは常にいるからである。
(3)正直が必要なのは、それがないと人間関係でいろいろ困ったことになるからである。
(4)忠実は友情に欠かせない。他人に見捨てられたときでも、友人なら力添えをしてくれる。
以上の要約から、各徳は異なる理由で価値があるとわかる。

 だが、アリストテレスは、徳が大切なのは「徳のある人生の方がより善い」からである。肝心
なことは有徳な人たちの方が常に成功するということだ。
人間本性の基本的事実についての考察
(a)きわめて一般的なレベルで言えば、人間は他人との付き合いを必要とする社会運動家である。
だからわれわれは家族・友人・市民と一緒に共同体の中で生きる。こういう環境において他人とうまく付き合うためには、忠実・公正・正直などの性格が必要となる。
(b)より個人的なレベルで言えば、人々は特定の職に就き特定の利益を追求している。この営みには勤勉とか良心などの別種の徳が必要になろう。
(c)時には危険や誘惑に直面しなくてはならないのが普通の人生だ。だから勇敢や自制が必要になる。
 各徳が共有する同一種の価値とは、「人生で成功」するという価値だ。
徳は万人に共通か(167頁下段4行目)
「全ての人間に同じような特徴が望ましいのか」全ての善人は似たり寄ったりだから「元になる一人の善人がある」などというべきだろうか。
フリードリヒ・ニーチェ(1844年10月15日-1900年8月25日)はそんな人などいないと考えた。
 人々は違った種類の生活を送り、違った種類の人格を持ち、違った社会的役割を担っているのだから、各人の成功に役立つ性格もそれぞれ違っていることだろう。徳は社会ごとに違ってくる。
生活様式はその地域で優勢な価値観や制度に左右される。各々の役割をうまく遂行するにはそれぞれ違った性格が必要となる。だから徳もそれぞれ違ってくるのだ。
 これに対して「一定の徳が全時代に万人によって必要とされる」と切り返される。これこそアリストテレスの見解に他ならない。アリストテレスは「人々はそれぞれ違っていても、共通の点もずいぶん多い」と思っていた。人間の基本的な問題や要求は同じである。
(1)いつも危険を免れる人などいないから、すべてのひとに勇敢さが必要となる。偶発的危険に対処するために、勇敢さが皆に求められる。
(2)どの社会にも他人より困窮している人たちがいるから、気前のよさはいつも褒められる。
(3)どんな社会も信頼に値する意思疎通なしには成り立たないから、いつも正直が徳になる。
(4)友人は皆に必要だし、自分自身が友人にならない限り友人などできないのが理屈だから、忠実さが皆に必要となる。
 主要な徳は人間が共有する条件に由来し、社会慣習によって決まるのではない。

 


第三節 徳倫理の長所(168頁下段15行目)
徳倫理には二つの長所があるとよく言われる。
(1)道徳的道義
 徳倫理は道徳的動機について魅力的な説明を与えてくれるから、説得力がある。
(私が)入院中に見舞いに来るスミスに元気をいただいていた私は、スミスに友情を感じ、感謝の念を述べた。だが、スミス自身は私には好意がなく正しい義務を果たしていると思っていた。
マイケル・ストッカー(1940年- )が提案したこの例で、「スミスの動機を知ったらあなたはがっかりするだろう」と指摘した。「きっとここには何かが足りない。道徳的な価値が足りない」と。
 スミスの「行為」には間違いはないが、問題は「理由」にある。われわれは人間関係が「相互尊重」に基づいていることを望む。「抽象的義務感」や「正しいことをしたい」という願望からの行動は、これとは異なる。そこには友情や愛や尊敬の価値が見出せない。
「正しい行動」だけに焦点を合わせる倫理説では道徳生活の完璧な説明などできないのである。
それだから「友情」「愛」「忠実」といった個人の性格を強調する理論が必要で、それこそが徳倫理なのである。

 

(2)公平という「理想」への疑問(169頁下段14行目)
 近代道徳哲学を支配するテーマは「公平性」だ。「万人は道徳的に平等」であり、「万人の利益を等しく重要なものとして扱うべき」という思想で、功利主義がその典型である。ジョン・スチュアート・ミルは「道徳的行為者は利害関係がなく慈悲深い傍観者のように厳格に公平でなければならない」と。本書も公平性を道徳の基本要件としている。
 公平性が真に気高い理想なのか。家族や友人が絡むところで公平であるべきなのだろうか。情の深い人間関係は善き生に不可欠なので公平性を力説するとなかなか説明できない。
 しかし、徳を重んじる道徳説なら、徳には不公平なものもあればそうでないものもある。忠実という徳は愛する人や友達に「肩入れ」することだ。慈善の徳は万人に対する平等な配慮だ。すると公平性という一般的条件ではなく、様々な徳の間の相互連関を理解することが求められる。


第四節 徳と行為(170頁上段18行目)
 徳の理論は「性格の評価」ではなく「行為の評価」もできるのだろうか。これへの答えは徳倫理の趣旨に左右される。
(1)一方には「正しい行為説」の長所を徳倫理の洞察と結びつける方法がある。例えばあくまで功利主義やカント主義を基本にして、それを「道徳的性格説」によって補完し改良することができよう。この手は見込みがありそうだ。もしそうならば、功利主義やカント主義を参照するだけで「正しい行為」の評価ができる。
(2)他方で徳倫理は他の倫理説の代替理論と思っている著述家もいる。こうした人たちの考えでは、徳倫理は自己完結した道徳説である。これを「急進的徳理論」と名づけよう。この理論は「正しい行為」についてどう言うのだろうか。二つの選択肢がある。
 (a)「正しい行為」と言う概念を完全無視する。
 (b)「有徳な性格」と言う概念から「正しい行為」の説明を引き出す。
 
 (a)のアプローチを取る哲学者は「道徳的に正しい行為」という概念そのものをなくすべきと主張する。アンスコムの考えでは、こう言う概念を捨てるなら「大きな改善」になろうと以下のように言う。
 未だに行為は「より善い」「より悪い」と評価されているが、本来別の言葉で評価されるべきである。「道徳的に間違った行為」と言わず、徳関連の用語を使って「不寛容な行為」「不正な行為」「臆病な行為」と呼ぶのがよかろう。
 彼女の見解ではこれらの術語であらゆる行為の評価ができる。
 しかるに急進的徳倫理の支持者は「道徳的正しさ」を拒絶するには及ばない。徳の枠内で新しい解釈を探せばいいだけで、「行為に賛成の理由」「行為に反対の理由」に基づいて行為を評価できるが、常に「徳関連」の理由にならざるをえない。
 かくして、行為を支持する理由は「正直だから」「気前がいいから」「公正だから」等となろう。かたや行為に不支持の理由は「不正直だから」「吝嗇(けち)」だから「不公正だから」等となろう。このアプローチでの「正しい行為」とは軒並み「有徳な人物がしそうな行為」ということになろう。


第五節 不完全性の倫理(171頁下段1行目)
 急進的徳倫理の主要反論は「不完全だ」という意見である。
(1)急進的徳倫理は必要なことを全て説明し切れない。典型的徳の一つ「信頼される性格」について考えよう。なぜ「信頼される人物」になるべきなのか。「信頼されることは徳であるから」という単純な意見を超えた答えが必要なのは明らかだろう。何といってもそれが「徳である理由」及び「善である理由」を知りたいわけだから。以下のような説明ができる。
 (a)信頼されることは「自分の得」になる。
 (b)信頼されることは「一般の福利」を促進する。
 (c)信頼は「共存共助」せねばならない人たちに必要。
 
(a)は倫理的利己主義のようで(b)は功利主義で(c)は社会契約説のようだが、これらのどこにも「徳による説明」など出てこない。個々の徳が善である「理由」の説明は、急進的徳倫理という狭い領域の彼方にありそうだ。
(2)急進的徳倫理が「なぜ徳なのか」を説明できないとすると、「難しい場面で当の徳がうまく機能するかどうか」もわからないことになる。慈善や親切の徳について考えよう。
 親切とは相手の「最善の利益」に気を配ることである。しかし、急進的徳倫理では「この最善の利益」が何なのかわからないのだ。徳倫理の第二の不完全性は、諸徳を完全に解明できない点にある。「各々の徳がどのような場面で機能するか」を厳密に規定することが不可能なのだ。
(3)急進的徳倫理が不完全な最後の理由は、道徳的衝突のケースに対処できないことである。
「正直」と「親切」は両方とも徳だ。この選択肢には賛成と反対の理由があるが、二者択一になっている。「親切を告げて不適切になる」か「嘘をついて親切になる」か、どうすべきなのか。このような状況で「有徳に行動すべきです」と言われてもどちらの徳に従うべきかは決めかねる。
明らかに急進的徳倫理を超えた手立てが求められる。
 急進的徳倫理単独では、「親切にしなさい」「正直に言いなさい」「忍耐強くしなさい」「気前よく振る舞いなさい」という曖昧な「お説教」に過ぎないようだ。曖昧なものに衝突があれば、それを超える指針が求められる。急進的徳倫理はもっと包括的な理論に支えられなければいけないだろう。

第六節 まとめ
 徳倫理は自己完結した理論ではなく、包括的な倫理説の一部と見なすのが一番いいようだ。包括的理論は実際の行為決定で考慮される全要件の説明およびその根拠となる原則を含んでいる。
残る問題は、この理論が「正しい行為」の説明と、それに対応する「有徳な性格」の説明を適切に関連づけることができるかということになる。
 筆者はこう考える以外にはないと考えている。仮に「正しい行為」の功利主義的原則を受け入れ、「最大幸福をもたらしそうなことは何でも行うべき」と思ったとしよう。道徳的観点からすれば、万人が幸福で満ち足りた生活をすることが望ましい。このうえで「どんな行動、どんな社会政策、どんな性格がそのような結果をもたらす見込みが最も高いか」という問いかけが出てくる。
 徳の本性に関する問いは、功利主義などの大枠の中で探求されうるものであろう。

 


第十三章 満足のゆく道徳説とはどんなものか
デレク・パーフィット(1942年12月11日-2017年1月1日)
もはや全てが言い尽くされているのだから、倫理学に進歩などあり得ないと考える人もいる……。わたしは逆だと思う……。他の科学者と比べて非宗教的な倫理学は最も幼く最も遅れている。『理性と人格』(1984)


第一節 傲慢なき道徳(174頁上段14行目)
 道徳哲学には豊かで魅力的な魅力がある。全ての古典的理論には真実味のある要素が含まれている。だが、これらの理論同士は食い違っており、ほとんどが異論に晒される。最終分析において何が真理となるのだろうか。われわれはほとんどの事象について「最終的真理」など知らない。


謙虚な人間観(174頁下段17行目)
 満足のいく理論は、事物の全枠組みにおける人間の地位について現実的な見方をするだろう。

約百三十七億年前にビッグ・バンが起こり、約四十五億年前に地球が形作られた。地質学的に見た人類の誕生はほんの昨日のことなのだ。人類の祖先は、自分たちこそ全被造物の頂点と思い始め、人類の利益のために全宇宙が作られたと考える者も出てきた。人類が正しさと間違いについての理論を発展させるようになると、自分たちの利益の保護こそ究極的にして客観的な価値と考えるようになった。他の生物は人類が利用するという計画の下に作られたと推論した。「人類は最も賢くて言葉を操れる唯一の動物」というように未だに残っている古来の説もある。この事実でさえ、人類が万物の頂点に位置するという世界観全体を正当化するものではない。


理性から倫理が生まれた経緯(175頁下段1行目)
 人類は理性的存在として進化してきた。理性的なるがゆえに、行動には理由がある。これらの理由の分析や考察もできる。自らの願望や要求の充足に有益であれば、当の行動を取る理由となる。
 人間が動物と同じように、本能・習慣・一時的欲望から行動するならば「べき」という概念は無意味だ。慎重に考え、行動方針を決め、どのような結果をもたらすかを検討した上で行動できるようになる。「べき」とは新しい状況を指し、最も強い理由があることを為すべきということ。
「理由に基づいた行動」が「道徳」に他ならないと分かれば、「為すべきこと」の推論には、「一貫性」があったりなかったりする、「一貫性がない」とは、類似した複数の状況で同一の「理由」が認められることもあれば認められないこともあるということ。
 例えば、自分の人種の利益を他の人種の利益より優遇するのも「一貫性がない」ケースだ。人種差別は「理由」に逆らっているから「道徳」にも逆らっている。ナショナリズムや性差別や階級差別も同様で、人間を「道徳的に優遇される集団」と「道徳的に冷遇される集団」に分断する教えにも当てはまる。ここから分かるのは「公平性」が「理由」の条件になっていること。とにかく万人の利益を平等に促進すべきなのである。
 人類は社会的動物として、集団生活を営み、互いに仲間を欲し、相互に協力を求め、お互い幸せに気遣うことができる。次の三つは適合することになる。
(a)理由の要求、すなわち公平性。
(b)社会生活の要件、すなわち公正に適用されれば万人の利益になる規則の順守。
(c)少なくともある程度は他人に気遣う本質的傾向。
これら三つが一緒になって道徳ができあがる。


第二節 人間のふさわしさ(176頁下段4行目)
 「万人の利益を同じく促進すべき」という思想はあっても、人間に異なる扱いをすることに正当な理由がある場合もある。人間は自由に行為選択ができる理性的行為者である。
 他人をどのように扱ってきたかに応じて人間を扱うことは、単なる「友へのお返し」とか「敵への怨恨」ではない。過去の行為に基づいて一定の対応を受けるにふさわしい「責任ある行為者」として人間を扱うことなのだ。これを考慮しないなら他人から厚遇を勝ち取ることが不可能になる。自分が成功するには、他人が自分を優遇してくれることも必要になる。「ふさわしさ」が認められている社会では、他人からの優遇を勝ち取る術がある。
 「ふさわしさ」を認める慣行があれば、「自分が他人をどう扱うのかのインセンティブ(誘因)」になるのみならず「自分が他人からどう扱われるかを自分でコントロールする術」にもなる。
 「ふさわしさ」とは「あなたは他人に親切をしたらその見返りとして、他人から親切に扱われる資格が得られます。その資格は自分で勝ち取るものなのです」というようなもの。つまり「ふさわしさ」の承認とは他人の尊重に関わる。

 

第三節 種々の動機(178頁上段1行目)
「万人の利益を同じく促進する」思想が道徳生活全体を表すのにどうも失敗しているらしい。他人に対する「公平な関心」に動機づけら(178頁上段7行目「れ」抜け落ち)なくてはならない場合もあるが、道徳的称賛に値する動機はそれ以外にもある。
(1)母親はわが子を愛しその世話をする。だが母親は自分が支援できるからという理由だけで、「わが子の利益を促進」しようと思うのではない。わが子に対する態度はよその子に対する態度とはまるきり違う。
(2)人々は友人には忠実である。ここでも人間への一般的関心の一部としてのみ、友人の利益に関心を持つのではない。自分にとって友人というものは赤の他人よりも大切なのだ。
 道徳生活から愛や忠実などを消し去ろうとするのは哲学馬鹿だ。
 もちろん「善なる動機」は他にもあろう。
(3)作曲家は何よりも自分の交響曲を完成させることに関心がある。他の仕事で「より大きな善」が実現できそうでも、それを追求する。
(4)エネルギーを別方面に注げば「より大きな善」が達成できそうでも、教師はやはり授業の準備に多大な労力を傾ける。
 これらは普通「道徳的動機」とはみなされないが、これらを人生から消したいと思うべきではない。「仕事に誇りを持つ」こと、「価値あるものを想像しようと願う」こと等の貴い目標は「個人の幸福」と「一般の福利」の両方に貢献する。これらを消し去ることも、愛や友情を消し去ることも望むべきではない。

 


第四節 多元戦略的功利主義(178頁下段16行目)
 「万人の利益を同じく促進するよう行為すべき」という原則の正当化に努めてきた(本章第一節)が、道徳的義務全てがそれに尽きるわけではないと注意もした。それは個々人の「ふさわしさ」に応じて、人間の扱い方に差を設ける場合もあるからだ(本章第二節)。さらに利益の公平な促進とは無関係に思える重要な道徳的道義のいくつかについても論じた(本章第三節)。これらの異なる関心は相互に連関している。
 個々人の「ふさわしさ」に即して人間を扱うことは、万人の利益を促進することとは大違いに思われる。「ふさわしさ」が大切な理由は、「ふさわしさ」の承認が社会の枠組みに含まれていないと、皆が大損を食らう。愛・友情・芸術創造・仕事への矜持などが大切な理由は、それらがない人生は大変貧しいことがわかる。これが示唆しているのは単一の評価基準があるらしい可能性である。
 単一の道徳基準とは「人間の福利」になるのであろう。重用なのは可能な限り人々が幸福であることだ。「人間の福利」という基準は、行為・政策・社会慣習・法律・規則・動機・性格などを含む多様な事象の評価に使える。だからといって「人々を最大限幸福にするという観点だけから常に物事を考えるべき」ことにはならない。わが子に愛情を注ぎ、友との交わりを楽しみ、仕事に誇りを持ち、約束を守るなどのことだけでも、日常生活は一層豊かになる。「万人の倫理を同じく貴ぶ」倫理によってもこれが裏付けられる。
功利主義の大理論家ヘンリー・シジウィック(1838年5月31日-1900年8月28日)は、「普遍的幸福が究極の基準」という教えは、「行為が正しくあるための唯一の動機、あるいは行為が常に最善である唯一の動機は普遍的慈善である」ということをと解されて
はならない。……純粋に普遍的な「博愛」以外の諸動機から行為した方が往往にして「一般の幸福」がうまく実現できることが経験上わかるのなら、功利主義の原則においても慈善や博愛以外の動機を優先する方が合理的なのは自明だ。と指摘している。
 このくだりは「動機功利主義」の論拠として引用されてきた。この見解によると「一般の福利」を最もよく促進するのは「諸動機」から行為すべきことになる。この種の見方で一番真実味のあるのは動機だけに着目する思想ではない。
 一番見込みがあるのは「多元戦略的功利主義」で、究極の目標を「一般の福利の最大化」とするので、これも功利主義に入る。目標の追求のために多様な戦略を許容するのであって、直接「一般の福利」を目指すことがあっても、いつも念頭になくても構わない。

最善プランに基づく正しい行為(180頁上段12行目)
 多元戦略的功利主義の背後に潜む思想。「自分の幸福」を可能にしつつ「他人の福利」にもつながる徳や動機や意思決定法の細目を遺漏なく記載したリストがあるとして、自分にとって最善であるとすると、少なくとも以下の項目が入っている。
(1)人生が成功するために必要な徳。
(2)行為の諸動機。
(3)友人や家族や他人との関係。
(4)各人の社会的役割、並びにそれに伴う責任と要求。
(5)各人の計画や職業選択に関連した義務や配慮。
(6)特に意識せず普段従っている日常的規則。
(7)どのような場合位に規則に例外を認めるのかの戦略、および例外を認める時の根拠。
 このリストを完成させるのは至難の業で実際に完成させるのは不可能だろう。このリストには、周囲状況や自らの個性と才能の制約内で「本人にとって最善の徳と同期と意思決定法の組み合わせ」が載っている。このような最善の組み合わせを「最善プラン」と名付けてもよかろう。
 自らの「正しい行為」とは自らの「最善プラン」に則った行為である。
 自分の「最善プラン」は他人の「最善プラン」と多くの共通点がある。嘘や窃盗、殺人の禁止などである。しかし、個性や才能は人それぞれなので、全員の「最善プラン」が同一である必要はない。個人個人により多様な徳の陶冶が求められる。いずれの場合であっても以下ようにいえる。
「最善プラン」の判定は「万人の利益を同じく促進する度合い」に基づく。だから全く功利主義らしくない「動機」という概念を頻繁に持ち出すとしても、根幹となる理論はあくまで功利主義だ。


第五節 道徳共同体(181頁下段9行目)
  道徳的行為者としてのわれわれは自らの影響が及ぶ範囲で「万人の利益」に配慮すべきである。
遠隔地でのワクチン接種を受けられない子供達の無駄死に、未来世代の福利に影響を及ぼす核兵器、気候変動等。
 道徳共同体は特定「場所」の人間関係にも限定されない。現在の行動による影響も、未来の行動による影響も共に大事なのだ。われわれの義務は万人の利益を平等に考慮することである。
 道徳共同体を拡大しなければならなくなる別の論点がある。と球場に住んでいる人類以外の、快苦の感覚能力を有する有感的動物にも利益がある。動物の虐待や虐殺は人間に照らし合わせても害である。だから動物の利益も計算に入れなければならない。
ジェレミ・ベンサム(1748年2月15日-1832年6月6日)が指摘しているように、種が異なるという理由で動物を道徳的配慮から締め出すのは政党ではない。人種・国籍・所得を理由にして締め出すのが正当でないのと同じだ。
 唯一の道徳的基準とは人間の福利ではなく「あらゆる存在の福利」である。


第六節 正義と公正(182頁下段5行目)
  功利主義は不公正とか不正と批判されてきた。功利主義への批判の一つに罰に関わる問題がある。カントが指摘したことだが、功利主義者は社会の目標を達成するためなら喜んで「犯罪者」を利用するのである。だが、犯罪の抑止といった価値ある目標のためであっても、人間を巧みに操ることを正当な道徳的戦略と認めるような説は不愉快だろう。
 本書が依拠する理論は、ほとんどの功利主義者と異なる刑罰観を持っている。本書の見解はカントのそれに近いのが事実だ。処罰とは普通の人間を遇するよりもずっと劣悪に遇することだ。
それは本人の過去の行為によって正当化される。刑罰とは本人の過去の行為への対応なのだ。
 刑罰理論は正義の一側面にすぎない。人間の扱い方に差をつけるときはいつでも正義の問題が生ずる。
 容貌や知能に秀でた人たちが恩恵を受けるのは正しいことだと考えられることが多い。これらの特質の大方は、秀でたDNAや優れた両親の養育によってもたらされたものだ。天分に恵まれたり、裕福な家に生まれただけで大抵は結構な仕事に就き高収入を稼げる。
 しかし、これが正しいとは思えない。自分にたまたま具わっている生来の能力が「自分にふさわしい」などと言える人間はいない。
 
生来の能力とは、ジョン・ボードリー・ロールズ(1921年2月21日-2002年11月24日)が言う「自然の宝くじ」の結果に過ぎないからだ。
 正当な社会において人々は勤勉によって待遇を改善できるとしても、恵まれた星の下に生まれたついたゆえに利益をうることがあってはならないのであろう。


第七節 まとめ(183頁下段19行目)
 満足のいく道徳説とはどんなものか。
 多元戦略的功利主義によると、「最善のプラン」に従って生きることで全有感的存在の利益の最大化を図るべきなのだ。しかし、この提案には謙虚さが求められる。過去何世紀もの間、哲学者は様々な道徳説を提唱してきたが、欠陥が暴かれるのが常だった。それでも望みはある。文明が滅びなければ、倫理学は前途洋々なのである。