このレジメは近畿大学経営学部キャリアマネジメント学科3回生 Nさんに作成いただきました。

9章 世評に対するおびえ

p.139
以上のような、ものの見方の違いのために、特定の趣味と信念の持ち主は、あるグループ内で暮らしているときは、ほとんどはみ出し者であるかもしれないが、べつなグループでは、まったく普通の人間として受け入れられる。大部分の不幸は、特に若い人たちの間では、このようにして生じる。

⇒ 就活などでもよく思うが、若者、特に学生のうちはレールの上に乗っていかに上手にやりすごすかを求められているように思う。大学生は少なくとも24歳までには卒業する予定で就活を行い、新卒として採用される。24歳を超えたものは、新卒としての資格を失ってしまう。このように、日本の中ではみ出し者であることは非常に不利益を被ったりすることが多く、なるべくレールの外側に出ないように出ないように生きている感じがする。しかし、世界全体でみると我々は井の中の蛙状態で、レールの外側に出ている人の方が普通で我々の方が異端であるのかもしれない。(私は海外に行ったことがないので、わからないが)

p.140
このような孤立は、苦痛の種になるばかりではなく、敵意ある環境に対して、精神的な独立を維持するという不必要な仕事に、膨大なエネルギーを浪費させることになる。

⇒ 物事に対して立ち向かうということも確かに大事ではあるが、別の環境を求めるという選択肢も決して間違ってはないと思わせてくれる。同じページの後半部「彼は自分が正しく、批評家たちがまちがっていることを一度も疑ったことがなかったからである。」とあるように、一つの価値観だけが正しいということは絶対になく、別の視点を取り入れることは非常に大事なように思う。

p.152
しかし、宣伝がますますその方法を完ぺきなものにするにつれて、この新手の社会的迫害の危険は増大するにちがいない。これはその犠牲になった個人が鼻先であしらうには由々しき問題である。言論の自由という大原則をどう考えるにせよ、現在の名誉毀損罪よりも鋭い一線を画するべきだ、と私は考えている。

⇒ 85年も前の本であるにもかかわらず、この未来を予見できるのに驚愕した。名誉毀損のことをおろそかにしてきたこそ、今でも誤報による冤罪などの被害が絶えない。


十章 幸福はそれでも可能か

p.159
達成の喜びを味わいうるためには、最後には通例達成されるにしても、あらかじめ、成功はおぼつかないと思われるような困難が存在していなければならない。過度にならない程度に自己の能力を高く評価することが幸福の一つの源である主な理由は、おそらく、この点にある。

⇒ ここの文章を読んで思ったのは、人は達成の喜びを感じるためには困難が必要とあるように、すくなくとも成功できないと思えるような乗りこえるべき不幸が必要だということだ。自分の能力評価のためにはどのような不幸を乗り越えてきたかというのが基準となり、それより大きい不幸を乗り越えることで、成功に対する幸福を得るのではないか。

p.165
しかし、仕事がつまらないものになればなるほど、ますます機械にやらせることが可能になってくる。機械生産の最終目標は―確かに、まだその目標からは程遠いが―面白くないことはすべて機械が行い、人間は変化と独創性を要する仕事のためにとっておかれる、といった態勢である。

⇒ 確かに、現代社会は筆者の指摘するように、つまらないものや単一動作が機械化されていった。ここで問題なのは、手の空いた人間の面白くないもの、すなわち暇も機械化されてきたことではないか。電車の中で、本を読んでいる人はほぼほぼ見なくなり、スマホに占領されてきた。変化、独創性という楽しみをも機械化で埋めているように思えてくる。




11章 熱意

p.176
人間、関心を寄せるものが多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなり、また、ますます運命に左右されることが少なくなる。

⇒ ここは疑問に思ったので抜粋した。僕は自分で言うのもなんだが、多趣味だが、運命左右されることが少なくなってはいないから、意見は異なるし、趣味が一つの人間からその趣味を取ったとしてもなにもなくなるのではなく、空いた場所に別の趣味が入り込むだけではないのか。

p.177
提供された材料をまったく驚くべき仕方で組み合わせることができるが、外界からの材料がなければ無力である。

⇒ ここで思ったのは、人間というのは反応する生き物だということだ。加工はできても自分で生み出すことはかなり苦手な生き物である。どんな哲学者でも、ソクラテスでも自己を顧みて考えたというよりは、相手からの反応を得て、「無知の知」を獲得したのである。


p.188
義務として仕事をするにすぎない。すなわち、彼らの動機は間接的である。彼らは、その行動への衝動をみじんも感じていない。ただ、その行動の最後の報酬に対する衝動があるだけだ。大部分の社会生活にも、同様な欠点が見られる。人々は互いに話し合うが、それは話しあいたいからではなく、協力することで最後に何かの利益を得たいと思うからである。

⇒ はじめの行動の要因は確かに間接的ではあるかもしれない。しかし、前に出ていた井戸掘りの人にしろ、その物事に対して主体的であるかどうかではないだろうか。熱意というのは制限があるないにしろ、その中で自由に形を変えて存在するもののように僕は思う



12章 愛情

p. 195
こうした安心感を生み出すのは、人から受ける愛情であって、人に与える愛情ではない。もちろん、安心感は、とりわけ相互的な愛情から生じる。厳密に言えば、こういう結果は、愛情だけではなく、賞賛によってももたらされる。
p.196
称賛をうけないときは、彼らは不満をいだき、自己中心的になる。

⇒ 人は認められるという外的反応が大切かということが読み取れる。ただ、自己中心的というより、内向的になり、自分がだめだという認識に陥る人が多いように思う。これは日本だけなのだろうか。


p.196
彼は内向的な人間になり、最初はうつうつとして楽しまないだけだが、ついには、何か哲学や神学の体系の中に非現実的な慰めを求めるようになる。世界はめちゃくちゃな場所であって、楽しいことと不愉快なことがでたらめな順序で含まれている。だから、世界をわかりやすい体系とかパタンとかにまとめたいという欲求は、突き詰めてみれば、恐怖の所産であり、実は広場恐怖症のひとつでしかない。

⇒ むかしから、レッテルを貼るという行為は魔女狩りなど様々なところで行われてきたが、そういう考え方というのは、ある意味内向的ということなのだろうか。レッテルを貼るということで自己の内部で安心感を得ようとしているのではないのだろうか。