日時:平成26年11月20(火) 18:00~22:30

課題図書:

「饗宴」 プラトン著 光文社古典新訳文庫

現代の我々は、「愛とは何か」と真剣に語り合うことはしなくなった。我々はギリシャ時代より本当に進歩しているのか? 

ギリシャ神話についての解説(氏家さんより)

     饗宴の原題はシュンポシオンでありシンポジウムの語源となった言葉。

     ソフィストの時代の議論が哲学史上あまり重要視されないのは、自然や真理についてソフィストが勝手に解釈して断定的に言っている部分が多いため(中谷)

     ギリシャ神話における世界の創造と日本の神話における国づくりの話は似ている気がする。


第1章

     少年愛について

Ø         これだけの文化を築いたギリシャで普及していた少年愛が廃れたのは何故か?師弟関係や知恵を伝授する方法として優れていたのであれば現代にも復活しようという議論があってもいいはずではないか。

Ø         最近、企業で使われるメンターやブラザー・シスター制度が近いか?

Ø         少年愛は師弟関係、支配関係で少年の間だけが対象だったかもしれないが、パウサニアスとアガトン(大人になっても関係を続けている)は現在の同性愛に近い状態になっているのでは?

Ø         大阪には弁護士で同性愛を公表している人もいる。

Ø         現代の人権問題の大きな主題として男娼の問題がある。当時も少年の側は嫌がっていたのかもしれない。

 

第2章

     現代、若者を導く方法として徒弟制度のようなものがなくなっている。

Ø         教育には知育・体育・徳育があり、徳育だけは集団ではできず師弟関係でないと伝えられないものかもしれない。

Ø         高校野球の監督と生徒の間は技術だけでなく精神面も指導されており深い関係だが、少年愛と同視できるのかどうかは分からない

Ø         人権教育についてのディスカッションで、会社で雇用されてから教育してもそれは仕事のなかだけの話になってしまう。もっと家庭などで行われるべきものではないのかという議論になった。少年愛で伝えられるべき知恵や徳というのはそういうことかもしれない。

 

第3章

     現代ではエロスは女性のイメージであり、男神だということにまず違和感を持ってしまう。愛について性的な関係を抜いて考えることが難しい。

     当時の貴族、満たされた人たちの間にあった風習ではないか。現代ではマイケルジャクソンを思い出してしまう。

     女性がカヤの外になっている感があって違和感を持つ。

     国文学の世界では井原西鶴などでは普通に男色が出てくる。その中では女性同士の愛も普通。

     戦国時代、江戸時代でも武士の世界には少年愛の風習があった。可愛がってやらないと謀反を起こされるということからそういう関係を作っていったのでは。

     男娼を買うのは主に金持ち。満たされた人たち。当時もそうだったのかもしれない。

     美形の少年を慰みものにする風習が貴族の間にあり、それに対する反省・批判と大義名分つくりとして教育や師弟関係という理屈が出てきたのではないか。

     愛する人のパワーを賛美する部分は共感できる。

     愛するということは自分のためというよりもただ愛したいから愛するのだという議論がある。無償の愛という考え方からすると少年は相手の持つ徳(場合によってはカネ)を目当てに付き合っているようで純粋な愛とは違うように感じる。

     相手の持つ徳を得たいから付き合うということは現代でもあるか?

Ø         学校には先生と付き合っている女子はいた。かっこいい先生ということもあるが、同じ年配の男子にはない知識などに魅力を感じていたのかもしれない。

 

 

第4章 肉体が持つエロスと医術

     いまいちしっくりこなかった。

Ø         対象が人間同士や男女ではなく、自然全てになってしまって拡散してしまったので分かりにくい感じはある。

Ø         相反する性質を持つものが交じり合う欲求がエロスという考えはわかりやすかった。

     音楽やリズムについての説明は大変美しくわかりやすい。

     調和というと、違うもの同士の問題であり、男女ならわかるが男同士は違和感がある。

 

第5章、 第6章

     昔の片割れを探すというストーリーはわかりやすく納得できる。

     口説き文句には最高かも。

     ベターハーフという言葉に通じる。結婚式の祝辞に使った。