物語
 昔物語「桃太郎🍑」の冒頭、お爺さんは山に芝刈りへ、お婆様は川に洗濯へ〜の箇所、「芝刈り」を知らず、「お爺さんは山にしばかれに」と捉え驚愕した。皆で音読して想像力を膨らませる良い点が裏目に。何故に爺様は、わざわざ時間が掛かり、足腰の負担を耐えてまで山へ入り、恐ろしいヤンキー共にしばかれるのか。「俺なら山へ行かん」と加藤。偶然、友人数名も芝刈りを知らず、山に行かないと、そのことに怒ったヤンキー共に婆様までしばかれるからじゃ無いか、爺様は男気がある良い奴だと。若干世間離れした我々の集団内では此の説が最も腑に落ち、受け入れられた。

 当時も変わらず北朝鮮🇰🇵は好戦的で、🇺🇸を視野にミサイルを開発していた。🇺🇸は食糧援助と引き換えに開発を阻止できないか模索、「米朝会談」に至ったのだが、我々小学生は「米朝」と言えば、天に召された桂米朝しか知らない。大統領と会談って米朝、さすが!と皆で褒め称えた。

 朝礼で、✏️にも命が、消しゴムにも命がと唱える校長に、我々は強い疑念を抱いていた。彼らの命を削って勉強しているのか。しかも話の内容に至った途端、標準語で話す点も怪しい。校長の「物語」はオリジナルから遠く、ネタ本があると推測した。掃除当番の際、ネタ本を発見、図鑑の後ろに隠し翌週の朝礼を待った。案の定、しどろもどろ、前回と前々回を混ぜた物語で、いつもの半分で壇上から降りた。消しゴムや✏️は削られてこその命なのだ。