先生
高校時代に「こころ」という夏目漱石の作品を読んだことがある。この作品は“私”と“先生”との物語である。明治の書生という現代から見ると奇妙な互助制度、その中に“K”や“お嬢さん”が登場し、この物語を彩る。人生において“先生”と呼ぶ存在には、幼少期から出会うことになる。おそらく学校という場だけでなく、たとえば弁護士や医師を“先生”と呼ぶ。そういった意味にでは身近な言葉であると言える。しかし、心から敬愛し、“先生”と呼べる存在が一人の人生において、一体何人出会えるのだろうか。私が“先生”と出会ったのは今から30数年前の「予備校」と呼ばれる場であった。
 当時、第二次ベビーブームで受験戦争と呼ばれた時代で倍率を10倍切った大学はほぼ皆無(あったのかもしれないがそういった大学は芦屋大学を除き今は綺麗に姿を消している)であった。大学進学者のほとんどが「浪人」をして当たり前、現役合格は強運の持ち主か天才、秀才だった時代にセンター試験を控えた10日程前の睦月3日に金杯という重賞レースに興じていた私には、当然のなりゆきとして“浪人“という運命が待っていた。そこで”先生“と出会った。
 皆誰もが腐っていた浪人生たちの中で”先生“は輝いていた。死んだ魚の目をした私たちの中で、”先生“は光り輝いていた。「奈良産ちゃ~ん」と舌を出したお世辞にも上手いと言えないイラストを黒板に描いたことを今でも覚えている。鮮烈だった。猛烈だった。苛烈だった。熾烈だった。現代文というそれまで異常に退屈でしかなかった教科に光が差したように感じた。クラス中が急に熱を帯びだした。”先生“の存在がクラスの雰囲気を一変するのだとこのとき始めて経験したことだった。
 非常な早口で、ウーマンラッシュアワーの村本のごとく話しまくるその姿、現代文を論理的に読み解く術を死んだ魚の目をした私たちへレクチャーする姿に真のプロフェッショナルを感じた。誰もが”先生“と話したがった。この前見た自称アイドルよりも熱いファン(口さがないモノは”信者“と呼んでいた)に囲まれて中々話すことができなかった。偶然、小論文の指導を受けたくて”先生“の帰りを控えめに待っていたところ、何日か経ち、ある日偶然に”先生“が一人で帰られる幸運(瞬間)にめぐり逢えた。
『新神戸まで鞄持って。新神戸まで話できるから』
神戸三宮の「予備校」から広島の「予備校」へと移動するとのことだった。やっと”先生“と話ができる――そのときが訪れたのだった。しかし、早歩きで歩くその”先生“との20分がまた驚きだった。授業中などにあれほど早口で話す”先生“がゆっくり語り出したのだった。
『なぜ授業中などは早口なのに今は普通に話されるのですか?』
『そりゃ~そうせな、あの人数相手でけへんやん』
至極当たり前のことなのだがそれが18の私には衝撃だった。まさに目の前で真のプロフェッショナルを見た想いだった。それから小論文の指導をお願いして以降3回ほど添削していただいた。信じられないことに神戸、岡山、広島など複数の場所を行き来されている先生が一週間後にちゃんと添削してくださったのだった。初回は『なんですかこれは?文章ですか?』とボロッカスに書かれ、田村秀行先生の「梵我堂の本音で迫る小論文」を読むように言われた。今でも私はこの本を元に小論文指導を行っている。私の予備校生生活はありがたいことに1年で済み、なんとかすべり止めの大学に進学することができた。それから”先生“との再会にまさか30年以上かかるとは夢にも思っていなかった。
 そんな”先生“との邂逅から30数年経ち、なかなか”先生“とめぐり逢うことができなかった。“先生”に憧れて、高校などの校内予備校の教師をするようになって、ある高校に行ったとき、”先生“の後ろ姿を見かけた(正確には見かけたような気がしただけだが)。それから様々な手段・方法で”先生“のことを探して、とうとう2023年4月13日に”先生“と連絡を取ることができた。
『王将で餃子でも如何ですか。』
――30年以上変わらぬ”先生“のスタイルがうれしかった。