墓は落ち着く。霙(みぞれ)が地面をぬたぬたにして、墓参者が顰(しか)めっ面する中、坂道を登る。居るのか居ないのか、分からん存在を思う行為。啓示のような閃きが届く時、「やっぱ、見えないから居ないとは言えない」って気付く。有難う御座います。
 生は長さではなく「密度」だと、高杉晋作の墓(下関市長府)で気付く一方、高野山では形式的に信長の墓を建てているが気配を感じない。企業単位の墓(工務店、メーカー)の方が、未だ感じる。滋賀直哉「城崎にて」📕で「生と死は同価値」と確か、言っていた様に思うが、エヴァンゲリオンでも使徒(渚カヲル)が、さも当然の口調で語って腑の深いところで落ちた。空間が齎(もたら)す啓示に頭(こうべ)を垂れる。