ある母の物語 | OFF-TIME

ある母の物語

ある日、少年は、新品のミシンで遊んでいました。


両親が親類の結婚式に出かけ、留守をしていましたから、そのすきに、こっそりミシンを動かしていたのです。


昔のミシンは、右手で太い金属の輪を回し、勢いがついたところで、両足で漕ぐように動かさねばなりません。

足をリズムよく動かさないと、ミシンは止まってしまいます。

少年にとっては、そんなミシンが面白く、母のやり方を思い出しながら、夢中になって遊んでいたのです。


でも、予想外のことが起きました。

何が原因か、よく分かりません。

止めたはずのミシンが動き、右手の中指に、ミシン針が突き刺さりました。

どうも貫通したようです。

少年は泣き叫びました。手がちぎれそうに痛むのです。

でも、針は全然抜けません。

そこへ、少年の母が帰ってきました。母は、少年の様子を見るなり、結婚式の引き出物を放り捨て、
「何をした? このバカもんが!」
と怒鳴りました。


母は、必死になってミシン針を抜こうとしていましたが、うまくいきません。

近所の人を呼んできて、二人がかりでやっと抜いたのでした。

血が噴き出しました。

それを見て、少年はまた、大声で泣きました。

母は、怒鳴りました。
「勝手なこと、しておいて、泣くんじゃない!」
泣いている少年の頭を叩き、自転車に乗せ、病院に駆けつけました。

母は道中、礼服の乱れも構わず、凄い勢いで自転車を走らせました。


「かあちゃんが、助けてやる」「かあちゃんが、助けてやる」……

少年は、母の腰にしがみついていただけですが、まるで呪文のように、何度も何度も同じ言葉を母が繰り返し言っていたことだけは、いまも覚えています。


あの時の母は、今では86歳になり、認知症がかなり進んでいます。

かつての少年が帰省した折、右手の傷を見せると、
「あんたさん、これ、どうなすった?」

「あなたのおかげで、指はちゃんと動きますよ」


ささくれだった母の両手から、そっと右手を抜き、肩を揉んでやったのです。

「どなたさんか、しらんけど、うまいもんやねえ…。ありがたいねえ。ほんとうに、ありがとうねぇ…」


かつての少年は、長い間、胸の奥にしまっておいたものが急に溢れ出し、困りました。

「かあちゃん、ありがとう」「かあちゃん、ありがとう」……


やせ衰えた肩を揉みながら、昔の母のように、何度も何度も同じ言葉を繰り返し言ったのでした。