体感知
先日、ふと手にした外山滋比古(とやま・しげひこ)著『忘却の力』の冒頭に、「ことばの殻」と題された小文がありました。
その前半部分を、そのままに引用します。
「幼い子どもでもボタンをかけることはできる。
しかし、それを口で説明することはできない。体が覚えている暗黙知である。
同じような年の子どもは、ウサギとカメが競走してウサギが負けた話もわかる。
こちらは頭で理解する、言語知である。暗黙知とはまったく次元が異なる。
一般に、言語知の方を暗黙知より高いもののように思っている。教育がすすむにつれて主知的になるのであろう。
知識の害ということはほとんど考えない。
若いときに、創意工夫に満ち満ちた人が経験をつみ、知識を蓄えて大家になると、知的活動がはっきり不活発になり、重箱の隅をつつくようなことをして、それを誇りとするようになる。人間はどうも言語知がふえるにつれて創造的でなくなるらしい。
子どもが詩人であるのは、ろくにことばを知らないからである。
知らないから創らなくてはならない。
年老いて詩人であるのが難しいのは、ことばを知りすぎるためであろう。
言語知の増大に反比例して暗黙知は小さくなる。
暗黙知の大愚は言語知の大賢にまさることがすくなくないが、人はそういうことに目を向けない。」
私は、この文章を5回、読みました。
文中の「暗黙知」という用語が馴染めず、著者には申し訳ないと思ったのですが、「体感知」というように、自己流に読み替えてみました。
「詰め込み教育」は、言語知を集中的に蓄積させる教育で、たとえば受験に成功すれば、それで大成功、めでたし、めでたし、という教育です。
その弊害は、いまさら申し上げるまでもないでしょう。
「ゆとりの教育」はどうでしょうか?
先を急がず、時間をかけ、個性を大切にして……、という教育ですが、言語知が中心になっているという点では、「詰め込み教育」と何ら変わりはありません。
子どもの将来に、言語知は必要です。
でも、言語知を学習するまでに、子どもがどのような環境に置かれていたのか、これが問題です。
豊かな暗黙知=体感知は、だれが、どこで、子どもに教えるのでしょう?
子どもが文字通り、自然に体得するのが暗黙知=体感知ですが、多くの場合は、子育ての中心となっている母親が教えるのではないでしょうか。
その母親は今、暇なのでしょうか? なかなか大変な時代です。時間的に、精神的に、余裕のある母親ばかりではありません。
子育てをしている親にとって、手間がかからない程度に子どもが暗黙知=体感知を体得すれば、それで子どもの将来は安泰といえるのでしょうか?
子どもは、時間さえかければ、どんな子でも、さまざまなものを自然に体得するものです。それを友だちと、楽しくできる場が幼稚園です。
当園では、先を急がず、暗黙知=体感知を豊かなものにする、そんな保育をしています。
お昼であれば、食事を楽しく、きちんと済ませられる教育。枯れ葉が舞う園庭では、枯れ葉を追い求めたり、拾った枯れ葉をお部屋に持って帰り、小山を作ったり、おじいさんのお髭にしたりする子の手助け。砂場遊びや、どろんこ遊び……。
小学校に簡単な英語教育が導入される時代ですが、当園では、先走った教育より、幼児期にしかできない教育を自信をもって進めていきます。