こんにちは、粟津サヤカですぽってりフラワー

 

レトロが消えゆく現状に危機感を覚え

自分の目で見て目

記録に残すためにはじめたこのブログ鉛筆

徐々にではありますが

見てくださる方が増えてきたようです。

 

はじめは

本当に誰に向かって書いているのか

よくわからず、

バスガイドさんのような制服を着て

旗を振りながらガイドする自分を想像して

無理矢理テンションを上げて

書いていたのですが(笑)

 

見てくださる方がたくさんいると実感できると

だんだん、

 

「ちょっとちょっと、コレ見てよ~おいで

「スゴイでしょ、ね、ね上差し

 

と無意識に語りかけるようになって

とても楽しんで書けるようになりました音符

 

わたくし、街歩きガイドもやっておりますが、

ブログでもこういう、同じような気持ちで

伝えられるようになるとは・・・

本当に嬉しいことですキラキラ

 

今後ともよろしくお願いいたします爆  笑

 

さてさて、

今回のレトロはこちら、

柳原銀行記念資料館です。

こんな立派な洋館なのに

ご存じない方も多いかもしれません。

かくいう私もつい最近知ったところです。

京都市の登録有形文化財です。

 

JR京都駅の東側、

高倉通りから鴨川西詰めあたりの地区を

崇仁(すうじん)地区というのですが、

昔、被差別部落があった場所なんです。

そのちょうど真ん中にあります。

柳原の名は、

当時この地が柳原庄と呼ばれていたことに

由来します。

 

門の外には大きな尖塔型の碑がたっています。

「櫻田儀兵衛氏の碑」とあります。

幕末から明治を生き、

解放令後の初代柳原町長だった方だそうです。

 

銭座があったんですね。

 

今は鴨川のすぐ西を沿うように南下する高瀬川、

むかしはこの辺りで

弧を描くように西へ流れていたそうです。

当時の橋のそばに立っていたものでしょうね。

 

柳原銀行は

明治32(1899)年認可を受け

二代目町長明石民蔵はじめ

地元の有志によって

被差別部落の住民によって設立された

日本で唯一の銀行として誕生しました。

 

この建物は

明治40年頃のもので

現存する木造の銀行建築として

最古のものなんだそうです。

以前は河原町塩小路の交差点に

立っていましたが

道路拡幅工事のため、

また、この地域の歴史を後世に伝えるため、

やや南の現在地に移築されたんだそうです。

 

館内に

河原町塩小路にあった頃の

写真が残されています。

「岩田皮革店」の看板が。

外壁のいろも今と違ってベンガラ色ですね。

 

柳原銀行の建物は

昭和2年に銀行が倒産してから

一般の店舗や住宅として使われていたそうです。

 

移築のとき、

屋根裏から現在のもえぎ色の塗料が発見され

もとの色に戻されたのだそうです。

 

1階内部です。

板の張られた天井が素晴らしいですね。

 

この透かし彫り、

百合の花の断面を模したものだそうです。

細かい部分に技がきいてますね。

レトロ!

 

以前は中央にL字型のカウンターがあったそうですが、

移設時には撤去されていて

明治期の他の銀行建築を参考にして

新たに復元されたのだそうです。

 

奥に階段がついています。

係の方の話だと

こちらの階段は後からつけたものだとか。

 

入口右手の小さめの階段を

銀行当時は使っていたとのこと。

移築時には1階部分の階段は

改変されていたので

2階部分を参考に復元されたのだそうです。

今は使用されていません。

 

2階へ。

1階と同じ雰囲気です。

心なしか1階より地味な印象。

内向きの仕事に使われていたらしく

1階より簡素に作ったのだとか。

 

住宅に使われていたこともあったので、

その時は仕切りを作って

和室にされていたそうです。

移築前の室内写真を

見せていただくことができました。

欄間がつけられていたのが驚きでした。

 

後からつけられたほうの階段で

階下へ。

きれいに復元されていますね。

裏口の戸の雰囲気が素敵です。

 

1階は京都市人権資料展示施設になっています。

この街と人々の奮闘の歴史が学べます。

近代以降、

柳原銀行がこの街の発展を支え、

いかに人々のシンボル的存在であり続けたのか

よく知ることができました。

 

設計は吉川吉之助。

柳原銀行の大口融資先だった会社の

専務取締役でした。

 

西洋建築を体系的に学んだ人ではないらしく

細部装飾の変化が少ないそうですが

内部天上のデザインや

上の写真のような

ペディメント(三角破風をかたどった装飾)など

独自に研究をした様子が見て取れ

この地域で建築文化が培われていた

いい例なのだそです。

 

うしろへ回ってみると

1階部分に白い壁が張りついていますね。

この部分は

ここへ移築する前の場所で

建設以前からあったレンガ塀を

建物の一部として活用した跡なのだそうで、

移築に伴いレンガ塀が撤去されたのを

埋めている壁のようです。

後々、移築するなんて思いもしなかったのでしょうね。

 

裏口です。

この中がさきほどの階段ですね。

 

入口扉の部分、

角を切り落としたような玄関です。

これは当時の銀行建築に

よく使われた手法なのだそうですよ。

そういえば皮革店だった頃の写真では

この玄関扉がありませんね。

お店なら人が入りやすいようにと

取ってしまったのでしょうね。

 

さて、厳しい歴史のあったこの崇仁地区。

2025年には

京都市立芸術大学が移転、

京都の一大アートエリアになるそうです。

柳原銀行記念資料館も

その敷地内に入るのだとか。

 

今は空き地の目立つ

少し寂しいところですが

数年後には若者が集まり

芸術の発信地になるなんて

とても楽しみです。

 

それでは、次はどこへ行こうかな~ランニング