瀧家はもともと、豊後国日出(ひじ)藩(大分県速見郡日出町)木下家に仕える武士でした。
代々、日出藩の家老職等を勤めるほどの名門です。
父、吉広氏も廃藩置県の際に政務を行うなど、中心的役割を果たしています。
時代の動きに敏感に反応してすで上京していた旧日出藩士からの勧めがあって、父も中央官吏に転出し、
以後、官職を退くまで家族とともに各地を転々としたわけです。
瀧家の菩提寺は日出町の龍泉寺ですが、父、吉広氏が萬壽寺住職と親交があった縁で、当時の住居にほど近い萬壽寺(大分市金池町)に葬られました。
萬壽寺は臨済宗の古刹で、1306年(徳治元年)の開山です。
お猿で有名な高崎山は、一部がこの萬壽寺の別院となっています。
墓石には「瀧累世之墓」と書かれていました。
その横には、没年の翌年、東京音楽学校の同窓生有志の手で碑が建てられ、
嗚呼天才之音楽家
瀧廉太郎君碑
東京音楽学校同窓会有志者建之
とありました。
代々、日出藩の家老職等を勤めるほどの名門です。
父、吉広氏も廃藩置県の際に政務を行うなど、中心的役割を果たしています。
時代の動きに敏感に反応してすで上京していた旧日出藩士からの勧めがあって、父も中央官吏に転出し、
以後、官職を退くまで家族とともに各地を転々としたわけです。
瀧家の菩提寺は日出町の龍泉寺ですが、父、吉広氏が萬壽寺住職と親交があった縁で、当時の住居にほど近い萬壽寺(大分市金池町)に葬られました。
萬壽寺は臨済宗の古刹で、1306年(徳治元年)の開山です。
お猿で有名な高崎山は、一部がこの萬壽寺の別院となっています。
墓石には「瀧累世之墓」と書かれていました。
その横には、没年の翌年、東京音楽学校の同窓生有志の手で碑が建てられ、
嗚呼天才之音楽家
瀧廉太郎君碑
東京音楽学校同窓会有志者建之
とありました。