死ぬこととは、生きることと見つけたり | oejbooksのブログ

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キリスト以来の危険な男。スピリチュアルテロリストOshoの言葉をはじめとして、Oshoに関連するさまざまな話題や情報を提供

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」

 

山本常朝が葉隠で語った言葉として有名です。

 

 

今でこそこの葉隠が武士道を説いた書のように思われていますが、江戸時代には密伝の扱いで、覚えたら火に投じて燃やすようにとされていました。

 

なので、ここに書かれていることは口伝による秘伝だったのです。

 

それはそれまでの武士道の概念を覆すような内容も含まれていたからです。

 

何が秘伝だったかはさておき、この言葉は、ある意味で死に方というよりも、武士としての生き方を語っているものです。

 

前回サニヤシンになるということは死ぬことだ、というふうに書きましたが、それは別の意味では、新しい生き方を意味しています。

 

OSHOは自分の弟子のことをネオサニヤスというふうに言いましたが、それは過去のサニヤスの定義をぶっ壊したからです。

 

ニーチェにより神は死にましたし、それに加えてOSHOはこれまでの宗教もぶっ壊してしまいました。

 

つまり、そういう過去に対して死に、これまでの全てのレッテルをひっぺがし、全く新しく今ここを生きる、ということにコミットすることが彼のサニヤシンになるということの意味でもありました。

 

ただ、神は死に、宗教をはじめとするこれまでのレッテルをぶっ壊したとはいえ、そのエッセンスである神性ということや宗教性ということを、OSHOは伝えてくれています。

 

今、私は私の人びとにオープンで、生き生きとして、成長しつづけ、いつも新鮮で新しくありつづけて欲しい。それは新しい類の現象、宗教性の存続である。

それには何のレッテルもついていない。なぜなら、すべてのレッテルは完全な終止符だからだ。そして、私は終止符が好きではない、セミコロンでさえ好きではない。生は常に流れ続けている」

 

そこで、実は、このブログで以前に途中になっていたOSHO国際瞑想リゾートへのツアーの話の続きに戻るわけなのですが、そのツアーの参加者の中に一人、「せっかくの機会なので、滞在中にテイクサニヤスしたい」という希望を述べられている人がいました。

 

オーガナイザーとしては、ぜひその希望を叶えてあげたいと思ったのですが、調べてみると、ちょうどマニーシャの死のコースの集合時間と、週に一度のOSHOリゾートでのテイクサニヤスのセレブレーション(お祝い)の日時が重なることが判明しました。

 

彼女は、仕事の都合上ツアーの最後までは滞在できず、そのコースに参加した翌日には帰る予定なので、唯一のチャンスはその1回しかないのです。

 

テイクサニヤスというのは、過去の自分は死んで、新しく生まれ変わることでもあるので、その「死のコース」に参加する前にテイクサニヤスすことは理想的なことのようにも思えました。

 

しかし、マニーシャは律儀で真面目なところがあるので、いきなり、「参加者がテイクサニヤスしたいので、その集合時間に1時間ほど遅れます」と言ったら拒否されるに決まってます。

 

どうすればいいかを考えていた時に、別件のミーティングでリゾートでいろんなことをまとめている部署のトップの人と話をする機会がありました。

 

話が終わった時に「何か困っていることない?」と聞かれたので、「実は。。。」というので事情を話したところ、

 

「そうだわね。日本人だと無理だわね。でもブラジル人なら、全然問題ないわよ。彼らは自分が好きなことをするし、1時間ぐらい遅れるのは大したことだとは思ってないし。。。」

 

「これだ!」とそれを聞いた時に思いました。

 

そこで、コースが始まる日に、死ぬ前の特別ランチということで、マニーシャが日本人の人たちとの昼食会、というのをアレンジしてくれていたので、その時にマニーシャに相談を持ちかけたのです。

 

「マニーシャ、実は、僕たち、日本人の条件付けを落とそうと思うんだけど? ブラジル人とかになってもいいかな?」

 

すると彼女は勘がいいので、何かを察したらしく、

 

「どういうこと?」って聞いてきたので、

 

「実は、テクサイニヤスしたい人がいるんだけど、ちょうど死のコースの集合時間と重なっているんですよ。なので、僕たちはブラジル人のごとく、集合時間には1時間ほど遅れることになります」

 

「いや、それはダメよ」と予想通りの答えが返ってきたので、

 

「条件付けを落とすようにってこれほどOSHOが語ってきているんだから、このリゾートで日本人の条件付けを落とすって、喜ばしいことじゃないですか。それをダメってどういうことなんです?」

 

って反論したら、隣の一緒にコースをリードすることになっているスディールにも助けを求め、「どう思う?」と彼の答えを促すと、彼は、

 

「そうだね。コースでは秩序も大切だからね。日本人でいたくれた方が。。。」

 

マニーシャも、「そうよ、日本人とかブラジル人ではなく、インターナショナルになりなさい」とか訳のわからないことを言い出すしで、すったもんだの議論をした挙句、

 

「わかったわ、こうしましょう。コースには時間通りに集合しなさい。その代わり、コースの最後に、みんなで彼女のテイクサニヤスのセレブレーションしましょう。ちょうど死んだ後に新しく生まれかわって、テイクサニヤスのお祝いをするならいいでしょ?」と。

 

それならこちらにとっても文句のない提案です。

 

マニーシャはずっとOSHOの近くにいた人で、以前はテイクサニヤスのセレブレーションでも、マラ(首にかけるネックレス)と名前を授けることをしていた人でもあるし、願ったり叶ったりです。

 

そういう経緯がありながら、ツアーの参加者の人たちとともに、僕たちは、マニーシャの4泊5日の「死の中への体験的探求」に突入したのでした。

 

そのコースについては、次回に。

 

それでは、今日も素敵な一日を!

 

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