このブログを書き始めた最初に説明したように、気象条件が許せば理想の着陸は誰でも出来ます。新幹線のホームに停止するような滑らかなブレーキ操作も出来ます。そのためには、何時もオートパイロット、オートスロットルやオートブレーキを使っていては難しいでしょう。

そして、水平線対しても感覚を磨いていなければなりません。

私は戦闘機のパイロットではありません。まして、「ブルーインパルス」パイロットのようなセンスは持っていません。極く普通のパイロットでした。しかし、身体検査に落ちてエアラインに入れず、ヘリコプターの道に入って、平衡感覚と進入角度に関する感覚が身に付いたと思います。

 

実家は明治40年から製パン業をしていました。近くに田中工業・通称タスモーターと言う会社が有りました。戦前中島飛行機(現在スバル自動車)の子会社でしたが、戦後小型汎用エンジンを作り始め、自転車に50ccエンジンを付けて原動機付自転車を発売しました。結構売れたようです。従業員が300人ほどいたので、昼食、おやつ用のパンを売っていました。家でも早速2台購入し、母とお手伝いしてくれていた近所のおばさんが、千葉市の県警本部に行き、女性では県内で一桁の番号の原付許可証を貰ったようです。私は小学校3年くらいで乗り始めました。同じく家には小型トラック、所謂 DATSUNも有りました。良く配達について行き、ギアチェンジとクラッチの要領を見ていました。5年生になった頃には配達のドライバーの人が話している間、近くを一回りしていました。しかし、間もなくそれも出来なくなりました。

父親は昭和25年、マツダのオート3輪の事故で亡くなりました。暫く母が経営していましたが、市川市の山崎製パンが急速に伸ばして来たため敢え無く倒産しました。山崎パンはそれまで朝1回の配達を朝・昼の2回に増やし、焼きたての暖かいパンの提供を始めたのです。兄弟3人で力をあわせて自転車で配達を始め、あっという間に大きくなりました。

実家は近くの小学校、中学校、千葉工業高校(委託)の給食も行っていました。今でいうリテール部門をあまり重視していませんでした。学校は春、夏、冬の長い休みが有り稼働率が落ちてしまうのです。母の経営では上手く行かず、ついに倒産しました。私が小学校5年生でした。親戚の援助と土地の一部を手放し何とか家は残りました。

現在山崎パンは信じられないくらい大きくなりました。経営手腕次第でここまで変われるのですね。中小の製パン業者は大分倒産しました。しかし、現在は食パンに特化した店や、菓子パン店が増えています。結構値段の高いパンが売れています。

家は駅に近かったのでパン焼き窯用の薪を貨車毎仕入れて大きな小屋に積んでいました。昭和31年か32年頃電気釜が入りました。その頃はもう父はいませんでしたが。

近所は砂地で田圃が少なく、麦を栽培していました。農家の人が物々交換で良く麦を持ってきました。その麦の麦芽糖から水飴を作り砂糖の代わりにしていました。又、麦を引いて粉にする機械もありました。

2代目の父親はあまり職人気質ではなかったようです。早くから車を買ったり従兄同士で酒を飲んでいました。この父親の元で家を継いでも成功できなかったと今でも考えています。私もセンスが無いと思っていました。しかし、今でも主食はパンです。ご飯は一日1食か、2日に一食で良いくらいです。

 

車の免許は、16歳の高校1年から軽自動車、18歳で普通自動車、大型自動車、大型自動2輪、21歳で大型自動車第2種免許の順で取りました。試験を受けることが趣味の様でした。教習所へは行かず直接試験場に行きました。

暫く、叔父がトヨタのトヨエースという1トン車を使用して、船橋市のフナショクパンを仕入れて販売していたのを時々手伝っていたので、2種免許に必要な3年の経験は問題ありませんでした。大型自動車は親戚の古いトラックで練習しました。試験場と同じくボンネットタイプのトラックでしたが、4.5トン積みと言うことで普通免許で運転できたので良く練習しました。

千葉県の試験場には同じ敷地に90度方向をずらした教習場があり、30分単位で練習できたのです。大型免許は30分ずつ2回、2種免許の時は最初30分ずつ3回、試験に落ちたのであと2回練習しました。計2時間半でした。その頃大型2種免許は、多い人で10~15回受けた人もいたようですね!。練習後、コースの図を描き復習兼研究しました。2種免許の試験は脱輪もなく回ってきたのですが、シンクロの無いギアのシフトダウンのダブルクラッチが上手く行かず、初めて試験に落ちました。評価は2種免許を受けるのだから経験が有るはず、最初はタイミングが合わず失敗しても良いが、試験中にその車の癖を掴み、最後はスムーズにシフトダウンできるようにならなければ駄目だと言われました。再度30分ずつ2回練習して2回目で合格しました。そして、バスはトラックと違い、常にお客様を乗せている意識を持って運転する事が大事だと言う事です。特に老人と子供、立っているお客様の事を考えて運転するようにと言われたのです。これは、ブレーキ操作とハンドル操作は飛行機にも通じると言う事です。発進だけはバスとは違いフルパワーで急発進します。しかし、離陸した後はバスと全く同じだと思います。その意識が有れば誰でも簡単に出来るのです。

私のモットーは「自分の車と会社の飛行機は大事に、ひと(他人)の車とレンタカーでメチャクチャ飛ばせ」です。

前にも書きましたが、着陸はセンスも必要です。しかし、地上でのブレーキ操作は車と同じです。ラダーペダルと兼用のブレーキが左右に分かれているので、意識して練習する必要があります。慣れれば全く車と一緒です。私は2000メートルでもTailwind(背風)以外殆どブレーキが必要ありませんでしたし、ブレーキの利き始めを全く感じないよう努力しました。

タクシースピード近くになって曲がる時に使うだけです。まして2500メートル有れば少しの練習と意識を持てば誰でも簡単にできます。ブレーキのオーバーホール回数が激減するでしょう。私のモットーに適うのです。

 

隣町の船橋には公営競馬場とオートレース場が有りました。その隣に船橋ヘルスセンターが有り、船橋サーキット場が出来ました。一周2050メートルだったと思います。良くオートバイのホンダC-72で走りました。そのうちレンタカーで走れるようになり、フェアレディ ZとホンダS600が借りられました。数回通ったところで、みんな乱暴に乗ったのか、直ぐ止めてしまいましたが!数年で鈴鹿サーキットが全盛になり、サーキットは閉鎖され、次は小型機の飛行場になりました。サーキットのストレート部分を利用して、中央航空が遊覧飛行の営業を始めました。ある冬のみぞれが降りそうな天気の日に、遊覧飛行のため4人乗りで離陸した直後、冬季期間中使っていなかった「通称大滝滑り」の更衣室に墜落したのです。幸い死亡者はなかったようです。キャブレターアイシングと言う原因でパワーが不足し墜落しました。寒く空気中に水分が多い時にキャブレターの中で水分が凍って空気の流量が減ってしまうのです。

住宅地の近くは危険だと言う事でこれも又、閉鎖になり、茨城県龍ヶ崎飛行場に移転しました。約2年後に龍ヶ崎に通うとは全く想像していませんでした。その時は遊覧飛行に乗るほど余裕が無かったのでパイロットの話だけをを聞きに行きました。

FOに昇格して間もなくロータリーエンジンのルーチェを買いました。半年後にマツダサバンナGTを買い、サバンナにロールバーを付け、車高を下げ、セミレーシングタイア4本を後席に積んで茨城県筑波サーキットに走りに行きました。どの位のタイムで走ったか覚えていませんが、筑波サーキット近くに日産サニー専門のチューニングショップがあり、その一団がとても速く、チューニングしていないサバンナでは歯が立ちませんでした。ブレーキング中にカーブの内側から抜かれるのです。上には上がいると初めて知らされました。ジムカーナやレースは金がかかるので一人で楽しんで走っていました。

B級ライセンスの講習会で、最後にフリー走行が有りました。カローラレビンと先頭の1・2番を争っていたのですが、ノーマルタイヤの空気圧2.5㎏に上げただけでした。何か焦げ臭い匂いがしてきたので途中で止め、タイヤを見るとなんと表面がドロドロに溶けて手がくっ付きそうでした。サーキットではカーブギリギリまで待って、如何に短時間でブレーキを踏み減速するかが必要です。飛行機とは正反対です。しかし、ブレーキング感覚はこの時練習した事で身に付いたのでしょうか? 飛行機のブレーキングとは全く違うが、目標を注視して減速率を判断する能力は付いたと思います。サーキット使用に改造する前に、鹿児島(空港)に転勤した同期(と言っても海上自衛隊出身のベテラン)の家までドライブしました。夜フライトから帰ってそのまま羽田空港から東名高速を走って行きました。昭和48年、オイルショック寸前でレギュラーガソリンが58~60円と言う時でした。普段でも悪いロータリーエンジンの燃費は、その時リッター4キロ弱と物凄いレベルでした。加速する時はアクセルペダルを床に踏みつけるほど踏んで、トラックが迫るとブレーキを踏み又、急加速です。神戸で一般道に降り福山市内で眠い中ボーッと走っていたらネズミ捕りにスピード違反で捕まってしまったのです。これは拙いと河原で少し睡眠を取り、夕方福岡に到着し一泊しました。翌日何とか鹿児島にたどり着きました。最後の峠道で結構スピードを出していたので、後続の車が殆ど見えなかったのですが、トンネルを出た直後バックミラーにライトを点けたオートバイが映ったので、一瞬エンジンブレーキで減速し、スピードを落としました。やはり白バイだったのです。停止させら何か言われましたが、事無きを得ました。昨日のように感じられる懐かしい思い出です。帰りは大阪までフェリーに乗りました。こんな運転をしていましたが、サーキットでは上には上がいると言うことを知りました。

YS-11とエアバスA300~600Rの教官をしましたが、エアラインパイロットになるために生まれてきたような訓練生が何人もいましたね。操縦の基本は全く同じです。小型機から旅客機になると、YS‐11でもとても大きく感じます。しかし、訓練科目はほぼ同じです。その重さとパワーに慣れれば、教わるというよりも自分で会得するだけです。ハイテク機になっても、若い人は小型機から直接エアバスA‐300-600Rの訓練で、直ぐ操作を覚えてしまいます。教えることはあまりなかったですね。却って手取り足取り教え、我々教官が活躍する場合、その訓練生は将来Captainになる時苦労すると思います

暗い現実の話になってしまいますが、「努力をすれば報われる」と良く言われます。ノーベル賞を貰った学者が講演で良く使うフレーズです。しかし、世の中はそんな甘い物ではありません。持って生まれた才能と努力とチャンスが無ければ絶対に報われません。会社の研究所で色々な分野に分かれて研究開発をしても、商品として世の中に出るのは限られているそうです。出ても競合会社に負けて直ぐ撤退することも有ります。大学院や研究所のポスドクと言われている人も、研究費を打ち切られ就職もままならない人もいるそうです。

「好きこそ物の上手なれ」と言う言葉もあります。しかし、競争相手が多い時、又、門が狭くなった、枠が少なくなったタイミングでは弾き出されてしまいます。就職氷河期の時代、今回のコロナショックに遭われた人も大変でした。

パイロットの世界も門が開いたり、狭まったり大変でした。昭和43~45年の間は最大のブームが来たのです。JALがBoeing747ジャンボを導入する計画が始まりました。それ以前はビーチクラフトなどの小型双発機の訓練を終了し、DC-9等の小型ジェット機で短時間ジェット機の感覚を掴みDC-8のようなその当時としては大型ジェット機のCO-PIに昇格していました。

B727が導入された以後は直接CO-PIに昇格していたのでしょう。

B747が導入されDC-8やB727のCO-PIからの昇格も順調に進みました。しかし、CO-PIの訓練は現在乗務している2機種からCO-PIを引き抜き、約半年間訓練するのです。乗員のやりくりが出来なくなりました。そこで営業本部から直接B747のCO-PIの訓練をして欲しいとの要求がありその通りになりました。航空大学も人数を増やしたり、民間の飛行学校も数校出来ました。ある程度の飛行時間乗るとエアラインの採用試験を受けそれ以降の訓練費用を奨学金として支給されました。一種の青田刈りです。私はその時ヘリコプターに乗っていたので若い人が我社だけでも50人以上CO-PI訓練の順番待ちをしていました。しかし、昭和48年に第一次オイルショック、その後第2次オイルショックもあり就職浪人が急増しました。航空大学を卒業しても就職できず飛行機に関係ない仕事に着いた人も大勢いました。訓練には2~3年かかります。航空業界の業績との間に時間のずれが生じます。私がYS-11の教官になった昭和60年頃、航空業界が又、ブームになりました。航空大学卒業生の伝手を頼り卒業生に連絡を取り大量に採用しました。

ドジャースに移籍した大谷選手は、中学か高校生の頃からストイックな練習をしたようですが、ノーベル賞を貰う学者に似ていますね!航空界でも、以前は視力の悪い人には最初から門が閉ざされていました。大学のグライダー部で活躍してセンスの良い人もエアラインパイロットには成れませんでした。でも飛行機が好きでディスパッチャ―(運行管理者)になった人も何人もいました。今でも、視力の問題だけではないが体を悪くして途中で地上職にならざるを得ない人もいます。又、身体検査の問題ではないが、機長に成れなかった人も大勢いました。

太宰府天満宮のような神社の合格祈願をしても全員が望む大学に入学できることはありません。それでも神頼みするのですね!父が事故死しているので、私は絶対に神頼みはしません。しかし、耳鼻系の問題で苦労しました。風邪が治りかけでフライトした後、慈恵医大から派遣されていた産業医に見てもらった時、「よくこれで入社試験が受かったね!」と言われた事を今でも忘れられません。しかし、何とか定年まで無事勤め上げられました。でも、アレルギー性鼻炎のためレーザー治療を2回しましたし、ギャラクシイ航空で飛ぶ前に、62歳で鼻中隔湾曲症の手術をしました。しかし、それでも定年まで飛行機に乗ることが出来、ロウテクの最たる羽布張り・尾輪式・65馬力のエアロンカ7-ACからハイテク機のエアバスA300-600Rまで飛ぶことが出来て私は運が良かったと思っています。