事業用操縦士の試験が無事終了し機長になりました。給料も増え、暫くしてから固定翼機のライセンスを取りたくなり、久しぶりに以前の日本飛行クラブに連絡しました。その時点で4年ほど過ぎていましたが、龍ヶ崎飛行場が使えなくなり、10キロ程南側の利根川の河原にある大利根飛行場に移転していました。飛行場と言っても芝生で、事務所はおんぼろバスです。ここでパイパーPA-28を使用して訓練を受けました。実地試験はヘリコプターの試験官と同じでした。無事に合格し、次は計器飛行証明です。計器飛行は経験がないので、まず羽田空港整備場にあるリンクトレーナーで練習です。20時間訓練しました。5年前のエアロンカと同じく1時間5000円でした。計器飛行の基本を習います。Simulatorではないので全く動きませんが、飛行した軌跡がプリントされます。頭の訓練です。

この訓練は終わったのですが、大利根飛行場には計器飛行を教える教官がいないので調布飛行場に行くことになりました。今度は富士重工のエアロスバルFA-200です。学科試験は3月に合格しましたが、合格発表から1年以内に実地試験を受けなければなりません。ある程度訓練が進み年末になって申請をしました。しかし、試験官の余裕がなく3月を過ぎても試験日が決まらず心配していたらなんと5月に決まりました。試験官の都合で伸びたのだから延長は認めるというのです。なんとか5月の試験も天気が良く終了しました。ここで運航部長に路線部への移行を願い出ました。しかし、答えは“ノー”です。それではと6月1日付けで退職願を出しました。

普段何も言わない母もこの時は「全日空を辞めるのは勿体ない」と言いましたね。

この1年で退職したのは3人おり私が4番目でした。今までにないことでした。6月30日付けで退職しました。そこで暫く調布飛行場でアルバイトです。月3万円で無償奉仕のようです。でも飛行時間が稼げる上、東亜国内航空を紹介してくれるというのです。新潟空港にある日本海航空という会社に派遣されて宣伝飛行をしたり訓練のお手伝いをしたりしました。教育証明という免許がないのに教えたりしました。その頃はよく行われていました。

ところが驚くことに退職して3日後の7月3日、東亜国内航空のYS-11ばんだい号が函館で墜落したのです。その1か月半前の5月15日に東亜航空と日本国内航空と合併したばかりでした。

外人パイロットを15人ほど採用して訓練していたのです。彼らは不安定な電波(ラジオ放送と同じ周波数)を使用するNDB(Non Directional Beacon)など殆ど使っていなかったのでしょう。雨が降る雲の中は針が不安定で函館NDBの北側の横津岳の上で針が回ったらしく降下を始め山に激突したのです。

その後暫くして新潟に一か月の予定で出かけました。空港のすぐ近くの一軒家を借りて訓練生と整備士と合宿です。新潟空港の格納庫が何か変です。格納庫の屋根が低く両側の壁の内側幅1メートル位深さも1メートルくらいに水が貯まっているのです。RWYO4も端が盛り上がり中国の航空母艦のようです。これは1964年(昭和39年6月4日)に起きた新潟地震の跡でした。この時は習志野市の実家の池の水が揺れたので良く覚えています。

1週間ほどした7月30日フライトから戻ると待っていた整備士が”全日空の727が雫石で航空自衛隊のF86と衝突したと聞かされました。5年前の連続事故と言い、私自身の変化のある時に航空事故に驚かされるのです。

新潟にいる時に母から連絡がありヘリコプターの会社からボーナスが出ているから受け取りに来いとのことでした。何と良い会社ですね!組合員のボーナスは4月1日から9月30日まで在籍した月数で計算されるので6分の3、半分が支給されたのです。結構ありました。月給3万円の身には有難かったですね!帰郷して直ぐ東京ヘリポートに行きました。

そこで驚くことを聞かされました。「早まりましたね!今月ヘリコプター事業部の縮小が決まったのですよ。希望者8人を先ず乗員部に送り出すことに決まり、希望者を募ったらなんと35人くらいのパイロットの内20数人が希望したので取り敢えず倍の15人を選抜隊として出すことにしました」とのこと。結局希望者は全員移ったそうです。パイロットの訓練で落ちた人や最初から自信がなく航空機関士に移った人もいたようです。戻った人も含め残った10数人で別会社になり現在も続いています。

そして、最後のダメ押しが有りました。11月にYS11を使用しての経験者採用試験を8人で受験して4人が合格しました。そして晴れて1月10日入社式のためモノレールに乗りました。

なんとそこにヘリコプターの先輩が数人いるではありませんか!聞くと我々も今日から乗員部発令で初出勤だと言うのです。なんと皮肉なことでしょう。

しかし、結果は機長に昇格するのは私の方が少し早かったのです。ANAは若い副操縦士が多いので機長昇格の順番が2~3年遅れると言う事で、ヘリコプターから来た人は遅らされたそうです。

4~5年で機長になれると言われた東亜国内航空もオイルショックで訓練もなくなり結局倍の10年かかりました。

耳鼻系の心配もライセンサーの場合パイロットの職が無くなると大変だからと色々優遇措置があるのです。眼鏡使用もそうです。採用試験では眼鏡をかける人はいません。しかし、目の良い人は早く老眼になります。そして、乱視にもなります。この場合身体検査証明書の備考欄に「眼鏡使用及び予備眼鏡携帯」と書かれます。現在は近視の人も採用しているようです。コンタクトは駄目ですね。視力が悪くても飛行センスの良い人がたくさんいると思います。

採用試験でも何も言われず、定年まで何とか飛ぶことが出来ました。でも大分聴力が落ちているので定年後は身体検査も厳しいので飛ぶことは諦めていました。