前回の熊野川瀞峡の遊覧船の撮影ですが、右側の遊覧船を避けるため左側にハンマリングターンをしたのですが、考えてみると数回の訓練と認定試験だけで実際に仕事をしていなかったので、左ターンの危険性を認識していなかったのかなと思いました。

 

ヘリコプターの新人機長の仕事は取材とフェリーフライトです。全国にある基地、札幌丘珠、仙台、大阪伊丹、広島、福岡各空港から東京ヘリポートへの機体交換のため整備士と二人で飛ぶのです。その他の空港には他の会社に委託していました。NHKがメインで他に朝日新聞、共同通信です。3社の看板をドアの外側にスライド式で付けていました。

その他、農薬散布や電線パトロール等仕事が終わった機体を東京ヘリポートへ戻す時に先輩機長の代わりに飛ばせて貰うのです。巡航スピードが110キロメートル、飛行可能時間2時間半位ですから2時間以内に給油が必要です。東京―名古屋間は小田原市の酒匂川の河原で給油します。近くのガソリンスタンドに委託して事前に連絡して給油して貰いました。その他の空港はほぼ2時間以内にあるので場外離着陸はほとんどありませんでした。農薬散布その他の作業には事前にドラム缶で送っていました。

鹿児島から福岡へのフェリーがありました。まだ鹿児島市内のフェリーターミナル近くの鴨池飛行場でした。現在の空港付近、国分、加治木を通り鹿児島本線に沿って北上したのですが、低い雲に遮られ引き返しました。そこで地上が見えるギリギリのコースで西側の海岸に向かい、川内市の近くで海岸に出ました。そこから低空飛行で北上したのですが、途中漁師が砂浜で作業しているのが見えたので休憩がてら着陸し、地図を示して現在地を確認しました。

旧熊本空港も市内にありました。カンパニー無線で状況を説明し間もなく到着すると連絡したところ非常に天気が悪く路線便は飛んでいないと言うことでした。

ヘリコプターの強みはスペシャルVFR(有視界飛行ルール)と言う手があります。視程1500メートルで引き続き地上が見えることが条件です。熊本タワーにコンタクトし許可を貰い着陸しました。そこで1泊し翌日福岡空港に無事到着したのです。

 

秋田駒ヶ岳の噴火の時、仙台空港から秋田放送局が撮影した16ミリフィルムを受け取る仕事が来ました。整備士と二人である地点(不明)まで飛んだのですが、雨の中、本当に地点が分からなくなり、学校が見えたので着陸しました。授業中の小学校でしたが、子供たちが教室から見守る中校長先生に現在位置を確認しました。無事フィルムを受け取り戻ったのですが、同じく天候が悪化し路線便が欠航しており、今回もスペシャルVFRの許可をもらい自衛隊の岩沼飛行場の上を飛ぶ許可をもらい最短コースで帰着したこともあります。

学校の校庭に着陸する時は周囲に高い電柱とか危険な障害物を整備士と共同で確認しなけれなりません。2周周って着陸します。

着陸後校長の着陸(使用)承諾書を貰い周囲の見取り図を描いて、後日航空局に場外離着陸申請を事後申請しなければなりません。数回しましたが一度だけ離陸できず一泊した時以外は申請はしませんでした。時効ですね!

実は一度だけ事後申請した時は私の責任ではありませんでした。50歳半ばの大先輩と二人、いいえ2機で大阪伊丹空港から東京ヘリポートへ編隊飛行のフェリー中でした。

先輩はANAの社員番号100番台だったと思います。そのころの定年は58歳でした。

朝から伊丹空港を出発し名古屋空港で燃料補給しました。何とか大井松田を経由して関東平野に出てきました。すると先輩がこの先には送電線の鉄塔が多く在るのでこの近くで着陸すると言うのです。そこである小学校を見つけ着陸することにしました。雨の中先輩の後に続いて隣に着陸しました。ちょうど日曜日で雨です。生徒は誰もいないので危険はありません。

場所は町田の小学校でした。直ぐ当直の先生にお願いして校長先生に連絡し許可を貰いました。

明日は月曜日で生徒も朝早くから登校して来るので出来るだけ早く出発して欲しいとのことでした。

実は先輩の住む町、地元で勝手知ったる土地でした。奥さんに連絡し迎えに来て貰い一泊お世話になりました。

整備さんはプロペラブレードを固定し係留の処置をしてそれぞれ横浜の自宅に帰りました。

予想通り天気は回復して生徒が登校する前に飛び立つことが出来ました。でも早く登校してきた一人にサインを下さいと言われて困ったことを覚えています。

離陸すると確かに多摩丘陵には送電線鉄塔が多数存在していました。でも飛べない程では無かったと思いましたが、面白い経験でした。

事後申請は運行管理担当者が校長先生の承諾書を貰い見取り図を描いて申請して貰いました。

 

ヘリコプターのパイロットは慣れてきて500時間とか1000時間と言う節目で事故を起こすと言われていました。私は訓練時間を含め480時間でした。このまま飛んでいたら事故を起こすのではないかと時折考えていました。しかし、一旦飛び始めると自信過剰でカメラマンの無理を何でも聞いてしまうのです。

後で聞いたのですがカメラマンの要求を何度も断ると次第に指名が無くなると言う事でした。

こう言うことも有りました。美濃部亮吉東京知事と元警視総監の秦野章氏の東京知事選挙の取材でした。美濃部知事が渋谷駅のハチ公前の広場で選挙開始の第一声を上げるとと言うので飛びました。カメラマンの撮影時間を増やそうと結構低空でホバリングに近いスピードでゆっくり回ったのです。さぞかし迷惑だったでしょう。

大阪万国博覧会の時でしたが、ソ連の撮影の仕事が来ました。巨漢二人のカメラマンです。

万博会場は東西に長くソ連のパビリオンは西側にあり、中央北側は現在も残してある日本庭園です。防振台は左側も付きました。撮影は会場を左回りすると決められていました。右側のカメラマンは腹の上に金属製の台を乗せカメラを持っていたのです。そして、なんと右側のカメラで「月と鎌」のシンボルの飾られたパビリオンを正面からアップで撮りたいと要求してきたのです。通常ダヴィンチの回転翼のマークの付いた革帽子をヘッドセットで抑えています。

この時はヘッドセットを外してお互い分からない英語で大声で会話していたのですが、遂に決心しました。なんと日本庭園の上をクラブ飛行、所謂蟹の横這い飛行をして右側のカメラで正面から寄って行ったのです。若干角度はずれていますが成功でした。しかし、横から吹き込んできた風に帽子が飛んで日本庭園に落ちてしまったのです。帰ってから部長に報告しました。しかし、どこからもなんのお咎めもありませんでした。

しかし、後日談があります。数ヶ月後公安庁の人が来ました。なんの事だろうと心配したのですが、ソ連の撮影時どういう経路で飛行してどういう撮影をしたかを聴かれました。勿論大阪伊丹空港から名神高速道路の上を飛行し会場を数回回って帰っただけですと答えました。

しかし、こういう仕事をしている人がいるのだと改めて感じました。そう言えば自衛隊に訓練に行く前、近所に身元調査が来たことを聞きました。私は父親がいないので来たのかなと思ったのですが、その時父の有る無しに係わらず身元調査されるのだな思いました。

 

楽しいフライトもあります。大阪中の島にある朝日新聞屋上ヘリポートからの離陸です。ジャンプ離陸と言います。その頃のレシプロエンジンの出力は低く、屋上からゆっくりホバリング状態で上がる事ができなかったのです。その場合屋上から直接一気に5メートル以上、若干前方に飛び上がりビルの端を過ぎたら今度は一気に機首を突込み川の上にダイビングして加速するのです。

直径10メートルのローターブレードをピッチゼロで回転している時は気流は全く静かです。そこで回転を落とさず一気にピッチを増加します。すると直径10メートルの外側は未だ気流が停止しているので一気に風を吹き降ろすと一瞬壁が出来大きなクッション状態になりジャンプ出来るのです。ビルのオフィスで仕事をしている人が初めて見たら驚いた事でしょう。

しかし、自分で着陸した後離陸する時は楽しいのですが、数日飛んでいない時に駐機してある機体をフェリーする時はチョット怖かったですね。でもゆっくり着陸して来たのだから離陸も出来ると思ったのですが、楽しいので何回か経験しました。

私が入社した1969年には屋上ヘリダムを備えた日比谷のNHKは現在の渋谷に移転していたので経験出来なかったのですが、日比谷公園は川が無いしNHKビルは低かったので静かに離陸していたのでしょう。

 

冬の寒い日、富士の演習場で米軍が155ミリ砲の実弾演習をするというので各マスコミのヘリコプターが富士吉田の富士急ハイランドの駐車場に前日集合しました。

朝快晴で気温が下がり断熱冷却で低い雲(霧)が発生し、すぐ近くの送電線が見えません。演習もまだ始まらないようです。雲が切れることは分かっているのですが時間は分かりません。突然送電線鉄塔のトップが見えてきました。そろそろ離陸できるかと各社のヘリコプターがエンジンの始動を始めました。処が私の機体のエンジンがかからないのです。冷えすぎて始動失敗です。エンジンは整備士がかけるのですが、私が25歳、整備士が23歳で一番若いカップル?でした。経験不足です。8気筒エンジンプラグ2本ずつ計16本を二人で外して湿った燃料を拭き、30分以上他社に遅れて離陸しました。何本かは鉛が付着していたことにビックリしました!100/130オクタンの凄い有鉛ガソリンだったのです。

その頃はもう快晴で演習場も良く見えました。他のヘリコプターの後に慎重について撮影しました。ヘッドセットを付けていたのですがヘリコプターの騒音以上に腹に響く“ズドン”と言う音が聞こえてきました。

実は冬のエンジン始動は大変です。札幌丘珠空港では格納庫の中でオイルを抜き別に温め、エンジンには灯油を燃やすロケットヒーターで熱風を吹き付けて温め、外に出して直ぐエンジンをかけます。そしてしばらく暖機運転です。

一度木曽駒ヶ岳の近くにフェリーに行ったのですが、ベテラン整備士は同じくオイルは別に温め、10センチ近くの太いエンジンインテイクマニフォールドに温めたお湯を入れたビニール袋を被せていました。

しかし、YS-11に乗り始めたらタービンエンジンは始動が楽でした。パイロットが始動します。そして暖機運転も考える必要がありませんでした。それでもキャビンが温まる迄時間がかかりました。キャビン後方から地上の機械で温風を送風するのですが、前方操縦席はなかなか温まりません。操縦桿はマイナス5度とか10度になっています。素手で触れたら手が固着してしまいます!

オーバーを着て皮手袋をして凍えてお客様の搭乗を待っていました。