1969年11月、ハイドロアシストのない通称8号での実地試験が無事終わりました。

これからは暫くベル47G-2です。明野訓練学校でも操縦していました。操縦桿はとても軽く乗りやすい傑作機でした。しかし、ターボチャージャーがないので力はありません。この機体で飛行時間を増やします。

その頃はKH-4が全盛でした。川崎重工が4人乗りのKH-4(川崎ヘリの略です)を作りました。ターボチャージャーを装備し、キャビンを前方に延長し、中央前方に操縦席、後ろに横一列3人席になりました。

なんと冬用にヒーターも付いたのですが撮影中ドアを外しているのであまり意味はありませんが!

そしてNHKが16ミリフィルムからトランジスターのビデオカメラを使い始めたので、右側に振動を減らす防振装置を設置しました。

勿論両機とも繁忙期は農薬散布に使われました。

NHKは年間契約をしていたので2月~3月になると余った飛行時間を新人カメラマンの訓練のため、又、資料用の撮影兼用で我々新人パイロットも飛ばせてくれました。

ちょうど2月でしたか、飛行時間も増えKH-4の訓練を受けました。すぐに農薬散布の訓練が始まり認定試験を受けに行きました。そこで朝日ヘリに行った同期生と久しぶりに会う事が出来ました。

農薬散布はハンマーリングターンと言う最初はとても怖い旋回をしてUターンをします。15~20マイルのスピードで水田の端まで行き、急上昇して止まる寸前にラダーを踏み込み一瞬にして急降下に移ります。この繰り返しです。まだKH-4の経験も少ないのに直ぐこの訓練です。教える教官もさぞかし怖かったでしょう。結局農薬散布はせずに退職してしまいました。

しかし、半年後この訓練が私の命を救ってくれました。和歌山県新宮市にある熊野川の瀞峡の遊覧船(底板を平らにしてスクリューではなく水を加速して進む)の撮影をしました。遊覧船が上流に進むスピードに合わせ進んで行きました。当然右側の船を見ながら操縦していました。突然目の前に索道(ある程度狭い川に荷物や何かを渡すための鉄製の綱)が現れました。瞬間ハンマリングターンです。間一髪で避けられたのですが、エンジン回転数が急激に下がってしまったのです。エンジン音が急激に下がりました。

何故かというテイルローター(後ろのプロペラブレード)のピッチを増やす時は左ラダーなので急激にパワーを取られてしまったのです。ヘリコプターは回転が命です。運よく索道は避けたのですが遊覧船に合わせスピードが少なかったので高度を取れず、スピードを増やすため急降下になってしまったが、今度は水面が迫ってきます。エンジン回転数は増えてきたが、あまり急激な引き起こしはテイルローターを水面に叩きつけると終しまいです。何とかギリギリで水平飛行に移りました。

しかし、その後も撮影は続けました。より慎重に!

整備さんは南紀白浜空港で待ってもらったので、彼をピックアップして、そのまま給油せずに戻りました。和歌山放送局の仕事だったので、行きも帰りも和歌山市の住友金属の工場の広い空き地でカメラマンを乗降させました。降りてからカメラマンにお詫びしたのですが、カメラを覗いているだけで何が起こったのか全く分からず恐怖感もなかったそうです。帰りは海岸線を低空飛行で遊覧飛行でした。小さな船や岩の上の釣り人を冷やかしながら旋回を続けていたら逆に酔ってしまったそうです。