大学の機械科に入りました。しかし、製図が始まって全く向いていないことが分かりました。そこで何か面白い事はないかなと考えていたら日本飛行クラブを見つけたのです。取り敢えず新橋にある日本飛行会館に話を聞きに行った処、40時間で自家用免許が取れると聞いたのでその場で入会してしまいました。実際には学科受験資格が40時間で、実地試験までは計80~100時間かかると言う事が後から判りました。習志野市から調布飛行場までは距離も有るし、都内が混むので龍ヶ崎飛行場に行く事にしました。

昭和40年の夏休みでした。最初に乗ったのはエアロンカ7ACと言う65馬力、羽布張り、尾輪式の軽飛行機です。1時間6000円、5時間分だったか?10時間分チケット?だったか、10%引きの5400円でした。戦争中の戦闘機乗りの方が最初の教官でしたが、とても優しくて良い人でした。

15時間ほどでソロ飛行の許可が出ました。最初の2回は離着陸でしたが、その間も教官同乗で訓練を受けました。教官からセンスが有るよと言われたのを覚えています。

3回目のソロで1時間ほど飛んで来て良いと言われ少し高く上がり、まず筑波山に向かいました。800メートル位なので2500フィートで良かったのですが、怖いので3000フィートに上昇して一回りしたが、一人でとても心細くなったのを覚えています。

その後谷田部高速自動車試験場のオーバルコースが見えたので向かいました。丁度1台走っていましたが200キロ以上は出ているのでしょう。全く歯が立ちませんでした。なにせこちらは時速70マイル/112キロです。どういう訳かこの飛行機はノットではなく陸マイルでした。1ノットは1.85、1マイルは1.61です。ドジャースに移籍した大谷選手の球速が100マイル(161キロメートル)を超えますね。

蛇足ですが、その翌年トヨタ2000GTが24時間で4000キロ以上走り数々の記録を作りました。恐らくあれは2000GTの試験走行だったのでしょう。

話は飛びますが、ANAヘリコプター事業部で飛び始めて間もなく昭和45年の春、横浜付近を走る新幹線の撮影をしたのですが、ベル47G2の川崎重工製KH-4の巡航Speedも殆ど同じ70マイルでした。全く歯が立ちません。撮影場所を決め少し高い所で新幹線の来るのを待ち、見えると同じ進行方向で速度を落として待ち、横に並ぶ前に降下し加速を始め、横を通り過ぎる10数秒撮影して終わりです。機体右側の防振台に設置したビデオカメラでの撮影です。新幹線開業から6年、未だ便数も少ないので数回で終わりでした。

 

さて、昭和41年3月の航空局の学科試験申請前に40時間飛ぶため1月末までに寒い中、250ccのホンダC-72と言うオートバイで通いました。龍ヶ崎市まで35キロ程あるので物凄く寒かったことを覚えています

2月に入り飛行クラブで学科の講習会が始まって直ぐ2月4日全日空のB-727が東京湾に墜落しました。

その1ケ月後の3月4日カナダ太平洋航空(現CA)のDC-8が羽田空港で着陸失敗、

なんと翌日の3月5日羽田空港を離陸したBOAC(現BA)Boaing707が富士山上空で空中分解事故を起こしました。

その上同日、丁度1ヶ月前のB727事故捜索中の海上保安庁シコルスキーが墜落しました。

3月10日自衛隊のF-86戦闘機が青森で墜落。

8月26日はJALのConvair880が航空局の試験中離陸失敗、炎上し試験官を含み5人全員が死亡。

最後は11月14日松山空港に着陸したANAのYS-11が滑走路中心に接地したためGo Aroundしたのち松山沖で墜落しました。

4件の大事故は羽田空港がらみです。

当時は未だFDR/CVRが搭載されていなかったためB-727とYS-11の原因ははっきりしません。

BOACは強い冬の偏西風の風下側に入り遊覧飛行をして空中分解したためであり、カナダ航空は滑走路前の岸壁に衝突すると言うお粗末な事故でした。

YS-11を含め旅客機4機、戦闘機・ヘリコプター各一機計6機の事故が発生した昭和41(1966)年でした。

 

しかし、不思議と恐怖感を感じることもなくますます飛びたくなりました。その上、自動車事故で夫を亡くした母親も交通事故も同じでしょうと言うのです。昭和25年5月でした。戦死せずに帰って来て5年もたたずに父は亡くなりました。

フランス製のモランソルニエ、パイパースーパーカブ、パイパーPA-28、などを各数時間乗りました。エアロンカより1000円から2000円高かったようです。

短大卒又は大学2年終了の条件があるJAL/ANAの試験を受けるため単位を取るため必死に授業を受けました。

その後実地試験を受けるまでのお金が不足したので試験は受けませんでした。JAL/ANAの学科試験が受かったので先ずJALの実地試験を受けました。

全ての科目ははっきりとは覚えていませんが、ビーチクラフトに乗り旋回中に角度の計算をさせられました。現在の針路からなん十度右(左)旋回したら何度になるかと言う位です。小学校の頃から算盤を習っており暗算は得意でこれは簡単でした。(3級を取って2級の途中で止めましたが)

その頃はもう52時間飛んでいたので余裕が有りました。

地上に降りてから教官に「身体検査は大丈夫か?」と聞かれたので感触は良かったのですが、後日身体検査の結果「シンタイケンサフゴウカクニヨリキイニソエズ(貴方の意に添えず)」の不合格の電報が有り物凄いショックでした。子供の頃から耳鼻咽喉系が悪かったのですが、まさかこの理由で不合格とは考えもしませんでした。全く無知でしたね!

次のANAは恥ずかしながら面接で不合格、最後は低高度で飛ぶヘリコプターならば良いかと当時の農林省の外郭団体「農林水産航空協会」が自衛隊に委託するコースがある事を知り受験して合格しました。その後ANAのヘリコプターに乗り、エアシステムから定年前の2年間でしたがJALの機長になりました。不思議なものですね!