image

image

深夜便でも沖縄那覇空港と関西空港は朝到着です

image

深夜便の貨物搭載中 47トン搭載可能

 

皆さんはGalaxi Airlinesの名前を知っているでしょうか?

佐川急便が2005年5月17日に設立し、翌2006年10月31日に運航開始しました。そしてあえなく2年後の2008年9月28日をもって運航停止となってしまいました。

現在、SG Holdingとなり上場していますが、当時佐川急便と言えば、褌一丁の飛脚便の絵が描かれていました。そのイメージを変えるために、ブルーとシルバーのGalaxy・銀河と星雲の絵が一面に描かれました。その魁となったのがAirbus A300-600Rでした。写真のように一面銀河と星が描かれています。

 最大離陸重量374000lbs(ポンド)約170トン、貨物積載量約100000lbs約47トンでした。

運航は1機(JA01GX)で羽田-北九州 で開始され順次、羽田-千歳-関西空港に広がりました。新品の2号機(JA02GX)が導入され羽田-沖縄・那覇空港も加わりました。最盛時は深夜1時過ぎに羽田を出発し北九州の往復をし、少し羽田で休憩し那覇空港に行きます。那覇には8時過ぎに到着しホテルで13時間ほど休憩し、羽田に帰ります。日曜日は貨物取扱が無いので、月曜日の夜まで時間がたっぷり有りレンタカーで島内観光が出来ました。

もう1機は同じく深夜千歳空港に飛び、時間調整して関西空港に向かいます。この時間調整は緊急事態発生時に代替空港として成田空港の使用が出来るようにするためでした。そして関西空港では堺市のホテルで12時間程休憩して同じく千歳経由で羽田に戻ります。

このように計画したのですが、現実は厳しく絵に”描いた餅”になってしまいました。

先ず、1号機がブラジルの航空会社から中古機を購入したのですが、目視では判別できない内部の桁に亀裂が分かり、結局ドイツまで空輸し3ヶ月近くかかりました。

次に大規模点検・整備はJALに断られシンガポール航空傘下の整備部門に委託することになり、空輸も含め時間がかなりかかりました。1号機は方向舵に欠陥が見つかり再度ドック入りし交換する事態になったり、深夜の北九州空港で整備点検中に車が機体を傷付けた事も有りました。こう言う事態になると、予定した貨物を他社に委託せざるを得ず大変な迷惑になった訳です。

運行開始後2年足らずの8月5日に 業績悪化のため10月5日限りで運航停止を決定しました。結局1週間早く9月28に完全に飛行停止になりました。社員にとっては”寝耳に水”のようでした。幸い会社が再就職の斡旋をしてくれたようです。

私は47歳から50歳迄3年間Airbus A300-600Rの教官をしていました。その後MD-82に戻り60歳定年まで飛びました。教官時代は訓練の最盛期で最初の2年間は月1回しか路線を飛ぶ事ができない程Simulatorの教育ばかりでした。実は1ヶ月30日以上路線を飛ばないと、路線教官と慣熟フライトをする必要があるのです。大分空港での訓練フライトは路線と認めないのです。

FOの訓練は大分空港で実機訓練をするのですが、一人3時間、45分の4回プラス航空局の実地試験45分です。機長はSimulatorの航空局試験だけで、実機訓練は離着陸を3回慣熟訓練をするだけででした。路線を飛べないので大分空港の訓練は楽しみでした。

私は聴力の問題で定年後飛ぶことは諦めていたのですが、先輩がSymulatorの教官で良いからと誘われました。約13年ぶりのSimulatorで、63歳で深夜の復習でした。最初はJALのSymulator(実際は慣れ親しんだ合併前のJAS)を深夜1時から5時まで使用できたのですが、JALは旧型747の乗員をエアバスに移行させる訓練が増え、結局タイ航空のSymulatorを使う事になり、バンコク郊外の訓練所に行きました。ここでも深夜の時間枠しか貰えず、トラブルが多く大変でした。1年ほど程教官をやっていたのですが、もう一度飛びたくなり会社にお願いしたら、身体検査が合格したら良いと言われました。聴力検査の救済措置”純音聴力検査”で審査会にてOKを貰い何とか合格し、2年振りに実機に乗る事が出来ましたが、しかし、実機OJT(路線訓練)を含め3ヶ月経った7月末に運航停止の噂が流れました。残念ながら9月28日まで飛行し、退職しました。退職後1ケ月経った頃会社から連絡が有り、殆ど新品だった2号機を中東の貨物航空会社(名称不明)が購入するので受領テストを担当して欲しいと言われ、副操縦士役ですが先輩と2時間ほど飛んだのが最後です。

1号機はアメリカの砂漠で廃棄処分でした。

結局最後にお礼として会社の玄関に飾ってあった写真のスケールモデルを貰いました。

私の歴史として最初、ANAヘリコプター事業部のベルー47G-2・KH-4の機長を1年半、レオナルド・ダ・ビンチの回転翼のマークの付いた皮の帽子を貰い、2年在籍で辞めて、東亜国内航空に入りCaptainの制帽を、次に日本エアシステムに社名が変わり計31年間、定年退職2年前にJALと合併し、JALのCaptain2年で定年退職しました。総計33年間在籍し、その内約22年間き機長を務めました。そして3年後、たった半年弱ですがGALAXY航空のCaptainも経験しました。

エリートコースを歩む事はなく、波乱万丈のパイロット人生でした。耳鼻系の身体検査にも苦労しました。総飛行時間17800時間です。しかし、自衛隊委託訓練を受けた同期は3人揃って20000時間を超えています。計5年程教官をしていたので2500時間以上少ないと思います。ヘリコプターは訓練を含め2年半で480時間でした。

 

Call Signの変遷をお話しします。

「オールニッポンコプター 機番」「トーアドメス 便名」「エアシステム 便名」「ジャパンエア 便名」最後が「ギャラックス 機番」でした。全ての会社でCaptainの帽子を被りました。そしてすべての会社名が無くなりました。JALは一度倒産し株券が紙切れになりました。現在存続していますが!