木の廊下に二人の靴の音が響く。

 

 よくわからない絵が何枚か飾られ、入口の扉横にあったものと同じロウソク型のランプが三本、等間隔で壁に並び空間を照らしていた。

 

右手側と正面に扉があるとこまで歩くと、初老の男性は正面のドアノブに手をかけ、「こちらです」とまた少し高めの声で扉を開けた。

 

 中は几帳面に掃除されている感じだった。周りを見渡し次に目に入ってきたのは、物がひとつひとつにポジションがあるかのように置かれていることだった。

 

アンティーク物の丸テーブルと椅子。そこへ座るように促され素直に座った。(言うことを聞いておかないと僕の脱出シュミレーションが機能しなくなると思ったので)

 

 

「はじめまして。Time-Blanchです。『ブランチさん』とでも呼んでもらいましょうか」

 

「よ、よ、よろしくお願いします、、、ブランツィさん」(口の中が相変わらず水分ゼロなので思わず噛んだ)

 

「ふふ、、まぁそう緊張なさらず。紅茶でも淹れましょう」そう言うと、ブランチさんは何処か楽しそうな感じで紅茶を淹れはじめ、「よーし良い感じかなぁ」と満足げな表情で僕の目の前にティーカップを置いた。

 

 

「いただきます、、、美味しい!」おもわず言ってしまった。

 

 

「ナウイ味でしょ?」正直よくわからない表現だったが顔に似合わずお茶目なのかもしれない。

 

しばらく紅茶を楽しんだ後、ブランチさんが切り出した。

 

「少し落ち着きましたか? では。そろそろ本題に入りましょうか、、、」

 空気が少し揺れた気がした。

 

「一馬さん?でしたっけ?」

 

「は、はい」(名前教えたっけ?)

 

「今日ここへ来ることは、実は決まっていました」

「え?」

 

「え? じゃなく、決まっていたんです」表情からして冗談を言っているようには見えなかった。

 

「そしてあなたが今悩んでること、このままの状況が続くともしかしたら最悪の決断をしてしまうかもしれないこと、諸々理解してます。

 

あなたの人生ですので、色々なことに縛られず自由に生きるべきだとブランチ考えます」

 手汗が半端ない。戸惑う僕をよそにブランチさんは続けた。

 

 

「という前提で、これからブランチが話す事を聞いてください」手汗MAX!

 

 

 

 

       『今の記憶を持ったまま過去に戻れますが、過去からやり直してみますか?』

 

 

 

 

 

 内容がヤバすぎて全く言葉が入ってこなかった。この状況で今僕が取るべき行動は、ここを一刻も早く自分が立てた脱出プランで脱出することだ。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか続けてこう言った。

 

「三十分三千円なんてお金取りませんよ」

 

 いつかの麻美と凛がハマっていたドラマみたいな言葉が、今目の前にいる白髪の初老の口から発せられた。

 

「と申しますと、、、」もう一度聞き返そうと思い、ありがちな返しをした。

 

「そのまんまの意味です。ブランチのは無料です。ただルールが二つ存在するだけです」

 また口が乾きそうになったので紅茶で潤す。ゆっくりとブランチさんは続けた。

 

 

 

『ルール①、いかなる理由があろうとも、自分が未来からきた人間だということを絶対に他の人に話してはいけない』

 

『ルール②、自分の死をもって契約終了となる』

 

 

 

 ニッと笑いブランチさんは続けた。

 

「記憶を持ったまま過去を修正できるって魅力的じゃないですか? やらずに後悔してること、もっとあーしとけばよかったなとか、あの仕事がしたかった、あの人に告白しとけばよかった、あそこに行けばよかったなどなど、自分の記憶を頼りにやれば失敗も最小限かと思います。でもまぁこの話が適応するのは一馬さんの今のご年齢までの話ですがね。その先は当然ですが今まで通り手探りの二者択一の人生になります。これが普通なんですがね。。。」

 

「もし …、もし死んでなくて他の人に話してしまうと、、、どうなるんですか?」

 

「良い質問ですねぇ。。。無になります」

 

「無?、、ですか? イメージがわかないのですが、、、」

 

「一馬さんが出会ったすべての人の記憶から居なくなるということです。この地球からも。。。飯田一馬という存在が完全に消えるということです」(フルネーム。。。)

 

 しばらく言葉が見つからず、初老を見つめていた。

 

「戻ってみますか?」(どこか楽しそうだ)

 

 正直迷っていた。

 

 当然だ。まずそんなことがこの現実の世界に起こりうるのか?最大の疑問が僕の判断を遅らせる。だがここ最近の麻美との関係性、自分の気持ちの変化などを考えるととても魅力的な提案だった。

 

凛の顔が浮かぶ。いつかの風呂での会話。でも、、、自分は今笑えてるのか? 笑顔で『幸せです、結婚してよかった』って曇りない言葉で言えるのか? 。。。答えは出た。

 

「やります」

 

「そうですか。わかりました。ではこちらの契約書に今日の日付とサインをお願いします。契約書の内容は先ほどお話しした通りです」

 

 少し震える手。この震えは何に対してだろう。家族に対して? 自分に対して? 期待? 不安? 想像がつかない。というかそのどれでもないのかもしれない。弱々しい文字が契約書に座った。

 

「明日、一馬さんはリスタート初日ということになります。スタート地点は一馬さんにとってベストな時期に設定されてますからご安心ください」

 

「え?自分で決めれないんですか?」

 

 軽い詐欺にあった気分だ。やはり脱出プランを発動すべきだったと後悔したがもう遅い。

「どこからのスタートになるんですか?赤ちゃんとかですか?」(そこからのスタートは避けたい)

 

「それはブランチにもわからないんです。でも一馬さんにとってきっとベストな時期ですよ」(ニッ)

 

 その笑顔が怖いんですが。。。

 

「この後僕はどうしたらいいんですか?何か呪文とか唱えるんですか?」

 

「いえいえ、それは漫画の世界です。ただいつも通り寝て、明日の朝を迎えるだけでいいです」

 

「そうですか。。。」全く信用していなかったが、信じるしかない。

 

「では玄関までお見送りいたします」そう言われ軋む廊下をもいう一度歩いた。

 

「今日はありがとうございました。何と言っていいかわかりませんが、とりあえず行ってきます」

 

「はい。。。くれぐれも契約違反にならないようお気をつけください」

 

 背中がゾクっとした。

 

「は、はい。気をつけます」

 

「未来は諦めずに想像し続けることができればきっと変えられます。何か見つかるといいですね。それでは。。良き旅を」

 

ブランチさんはそう言い残し扉を閉めた。

                                          帰り道、ブランチさんとの時間を思い返していた。そもそも松山さんはどうやってあの名刺を手に入れたんだ? まずそこなんだが…。

しばらく考えたが話がぶっ飛びすぎていて最終的にはもうどうでも良くなっていた。

 

「リスタートか、、、」

 

 気持ちの整理がつかないまま家の玄関の前まできた。

 

 

  カチャン。

 

 

向こう側で悲しそうな音が鳴る。ドアを開けリビングに入る。

 

『おかえりー』麻美と凛の声が記憶の中で響く。あの頃が懐かしい。ふたりを起こさないように静かに晩御飯を食べ風呂に入り布団に潜った。

 

一体どこからのスタートなんだろう。もし学生時代なら今度は野球じゃなく柔道かサッカーがしたいな。いや待て、もっと前に戻れるならバリバリ勉強して医者でも目指すか? そんな期待と不安を感じながら眠りについた。

 

 

 僕の旅が明日始まる。

 

 

 

       

つづく

 

「一馬おっはよー」同期の祐子(通称ゆっこ)だ。

 

「おー、、おはよ。。。」

 

 駅から歩いて十分ほどの距離に職場はある。この辺ではそこそこ名の通った美容室だ。今年からチーフを任されるようになり半年ほど経つが、、、なかなかしっくりこないのが正直なところだ。

 

「どうした?元気ないじゃん。また奥さんと喧嘩した?」どこか嬉しそうに見える。

 

「うん、、、相変わらずねぇ、、『座りションの変』継続中」

 

「ぁ~御愁傷様、、、」

 

 ゆっこには同期ということもあり何でも相談していた。チーフとしての立ち振る舞いにも悩んでいたからそっちもついでに。 

 

 モヤ~っとした中、朝礼が始まりOPENの準備に取りかかった。時計の針が十時を回りご予約のお客様が次々と傾れ込んでくる。ありがたいことだ。

 

「松山さん、おはようございます」僕の朝イチのお客様だ。もう五年の付き合いになる。

「おはよぅ」関西弁のイントネーションがどこか心地よい。

 

「今日はどうなさいますか?」

 

「今日? そやなぁ、、、一馬くんにまかせるわ。カラーでもなんでもしてー。あ、ぼったくったらあかんで。 アハハ!」

 

 このテンション。

 

  朝からステーキを食べる感じと似ているが、気を使わなくていいから毎回意外と食べれる。

 

「かしこまりました! では! ぼったくり手前メニューでいかせていただきます」

 

「なんやそれ! 初めて聞いたわ(笑) そんな武器持っとったんか? 楽しみやな 」

 

 毎回こんな感じで施術は進んで行く。

 

  カットが終わり、カラーを塗り始めたころで松山さんが心配そうに口を開いた。

 

「一馬くん、今日ちょっと調子悪いんか?」

 

「お。さすがですね。というか見破られるくらいじゃ僕もまだまだ修行が足りませんね、、、」

 

「どないしたん? 奥さんとケンカでもしたか?」

 

「お察しの通りです」ちょっと喰いぎみに言う。

 

「話聞こか?」

 

 この仕事のいいところは、頑張れば独立もでき自分の城を築けるという夢のある仕事だが、それとは別にここにいるだけで色々な人達と出会えるということだ。

 

そして色々な話もできるし聞ける。松山さんにはよく笑い話的な感覚でそれとなく相談はしていたが、本気のやつは今回が初めてだ。

 

 

 

「とまぁこんな感じです。。。どうしたもんですかね?」

 

 松山さんは少し考えた様子を見せた後、いたずらっ子みたいな表情でこんなことを言ってきた。

 

「おもろいとこあんで 」ニッと笑う。

 

「なんすかオモロイトコって。この話の流れでおもろいとこを紹介しようとしてる松山さんの方が逆におもろいんですけど」

 

  真剣に相談したことを少し後悔した。

 

 松山さんはそんな僕の言葉をよそに、一枚の名刺を手渡した。

 

 

 『Time-Blanch相談所 』   名刺にはそう書かれてあった。

 

 

「タイム、、ブランチ? 相談所? なんすかここ」

 

 松山さんは困惑する僕の顔を無視し、満面のいたずら顔でこう続けた。

 

「ここな、おもろいおっさんがおってな、 まぁ~なんちゅうか、不思議な話が聞けんねん。一馬くんの顔見てたらここが一番ええかなぁ~おもて」ニタ~っと笑った。

 

「怖い怖いこわい! そんな顔で言われて <はいそうですか、なら行ってみます>ってなりませんし」

 

「そうなん? 残念やわ~ ほんなら名刺返して、それ一枚しかないねん。今度どっかにおもろそうな人おったら渡すから」

 

 言われるがまま僕は名刺を渡そうとした。でもどっか引っかかる。

 

「いや。。。やっぱり、、、これ頂いときます」

 

「お! どないしたん急に! まぁ一馬くんがそう言うんやったらその名刺あげるわ」

ニッと笑う。

 

(そのニッが気になるんだよ、、、)

 

 松山さんをお見送りしもう一度名刺を見た。

 

 

「Time-Blanch相談所、、、」

 

 

 モヤモヤした気持ちを抱え営業は進んでいった。閉店後、ミーティングの予定になっていたが運良く中止になり早く帰れることになった。

 

「ゆっこおつかれー、ちょっとさぁ、相談、、、、やっぱいいや」何故か言葉を飲み込んでしまった。

 

「ん?どした?気になるじゃん。なんか相談事?」

 

「いや、やっぱ大丈夫。大した事じゃないから」

 

「あそ。なんか力になれる事あったら遠慮せずに相談してよね!」ありがたき同期。

 

 僕は歩きながら駅に着くまで、松山さんから頂いた名刺を穴があくんじゃないか? ぐらい眺めていた。裏を見ると簡単な地図と住所が書いてあった。

 

よく見ると駅からさほど遠くない感じだった。確かこの辺りにコンビニがあったような。。。その近く? かな? 的な感じだった。

 

「こんなとこあったかなぁ、、、」この街には詳しい方だったがさっぱり検討がつかなかった。

 

「まぁいいや。大体の場所はわかるから偵察がてら行ってみるか」

 

 そう思い相談所をめがけ歩いた。不思議と足取りが軽い。少し迷いそうになりながらも何とか到着。確かにあった。

 

『Time-Blanch相談所』

 

木彫りの看板。アンティークな扉。

 

ロウソク型のライトがぼんやりと辺りを照らしている。扉の近くまで寄ってみた。というか寄ってみたくなった。ウルフ型のドアノッカーが付いている。(普通ライオンじゃないのか?)そう思ったがノックすることにした。

 

 ゴンゴンゴン

 

(まずい!)我に返った瞬間だ。全くの予定外の行動を自分がとったからだ。踵を返し足早に立ち去ろうとしたが時既に遅し。

 

 ガチャリ

 

 鍵の開く音。僕は観念し足を止めた。

 

 

 ギ、ギ、ギィー、、、まるであのゾンビゲームかのような扉の開く音。

 

ゆっくりと振り返ると、そこには白髪で短髪の男性が薄暗い中からゆっくりと浮き出てくるところだった。見た目初老。やばいかも、、、そう思った。そして僕の脳裏には松山さんのあのイタズラ顔の『ニッ』が浮かんでいた。

 

 

(この場を何とかしなければ)そう思った僕は仕事で疲れた脳に鞭を打ち言葉を探した。

「あ、、、、あのぉ、、松山さんにこちらの名刺をいただいて(口の中水分ゼロ)場所だけ確認しようと思って来てみたんですけど…、なぜか、、ノックしてしまって、、、」

 

 無表情の初老。(泣きそうなのでせめて相槌だけでもください、、、)

 

精一杯の言い訳をした。だが無意識にノックしたのは事実だ。そして水分のない口の中。

 

きっと口臭きつい。

 

そんなことを考え名刺をお札(おふだ)代わりにするかのように初老の男性に見せ出方を待った。

 しばらく男性はそのお札、、いや、自分の名刺を見つめ記憶を辿っているようだった。

 

「あ~、、関西弁、、松山さん、、はいはい」

 

 意外と声が高い。。言えないが、、、。初老の男性は続けた。

 

「どうぞ、お入りください」そういうとニッと笑った。(それ最初から欲しかった)

 

入っていいものだろうか、、無事生還できるのだろうか、、、いろんな事が頭をよぎる。

 

粗方脱出方法のシュミレーショが終わった後(この間二秒)僕は覚悟を決め一歩を踏み出した。

 

 

 

つづく

ー今の記憶を持ったまま過去に戻れるとしたら、あなたは何をしますか?ー

 

1、はじまりの始まり

 

  「人生をやり直せるとしたら。。。?」

 

 テレビから耳を叩かれた。

 どうやら最近流行の月九のドラマらしい。

 

続けて主人公らしき男が「三十分 三千円で戻れますよ~」と夢のようなセリフを吐いた。些か高いような気はするが、、、 「三十分三千円か。。。」無意識に呟いた。

 

「ん?一馬? 何か言った?」 妻の麻美だ

 

「いや、、、過去に戻るとしたらって考えてただけ。ハハ、声大きかった?ゴメンね」

 

 飯田一馬 僕の名前だ。  

子供にも恵まれ妻との仲も良好な普通の幸せな家族だと思う。二十八歳で結婚。翌年麻美(マミ)が妊娠し、一人娘が誕生。 名前を「凛」と名付けた。

 

 五歳になる凛と食卓に並べられたハンバーグと味噌汁。豪華キャストだ。ちなみにこのハンバーグ、信じられないくらい美味しい。麻美を驚かそうと思って何度か作ってみたが「否!」と叫びたくなるくらい別物に仕上がってしまう。いつか作り方を盗もうと企みながら白米を頬張った。

 

 思考を切り替えテレビに目をやった。

麻美と凛はこの摩訶不思議なドラマを毎週楽しみにしているらしい。 ちなみに凛はこのドラマの主人公が好きなだけのようだ。

 

「これ、いつからやってるの?」

 

「確かねぇ、、今回で三話目? かな? 結構面白くって凛とハマちゃった! あ、、もしかして一馬もハマりそう?」

 

「うん、意外とね。設定が面白くて。 考えちゃうよね」

 

「何それ! あ~、まさかちょっと戻れたらなぁ。。とか思ってるんじゃないでしょうね? 私という素敵な嫁を手に入れたというのに!」

 

「違う違う! 麻美や凛とはこれからもずっと一緒に居たいと思ってるよ。ただなんとなくね。。。子供の頃の夢だったりとか、仕事だったりとかさ。。。」

 

「真面目か!」

 

 そう言って麻美はいつもの大笑いを得意げに見せた。

 食事も終わり食器を洗う。担当は僕だ。カウンター越しにテレビを見ている二人を眺めながら、僕の頭の中はあのドラマの主人公の言葉を繰り返していた。

「過去に、、か、、、」口に出してみた。

 

「一馬? どうしたの?」

 

 麻美の言葉を合図に、僕の耳に蛇口から勢い良く流れる水の音が飛び込んできた。どうやら思考と共に何処かへ行ってしまっていたらしい。

 

「あ、ごめん。考え事してた」

 

 昔からそうだった。気になる言葉だったり、行動だったりを聞いたり目にした時、その気になる『何か』を僕は意識の中で探しに行くことがある。

 

「大丈夫? 今日忙しかったの?」

 

 まさか過去に戻れるとしたら? を本気で考えてたなんてさすがに言えない。言ったら不審がられるのが落ちだ。

 

「ん? あー。。。そーだね、ちょっとバタバタしちゃったかな」

「忙しいことは有難いことだし! 頑張らないとね!! パパ! 」

「お、おぅ。。」とは言ったもののなかなかこの思考から抜け出せないでいる。

「風呂入ろっかな」脳内を切り替えたかった。

 

「凛も一緒に入るー!」

「お! そっかぁ! 入るか!」娘に救われた感じがした。

 

今度は頭が泡だらけになっていた。凛は湯船で歌を歌いながらアヒルのおもちゃで遊んでいる。自分の過去を思い返してみた。

 

 小さな島国で生まれた。理髪店を営む父と母、そして五つ上の兄。僕の家族構成となる。野球バカの親父の影響もあり(柔道やサッカーもしてみたかったが、、、)小、中、高と野球をし、中学と高校ではキャプテンも経験した。

 

 頭は悪いほうだったので大学には行かず、島を出て東京の理美容専門学校に入学し美容師免許を取得した。都会への憧れも強かったので田舎には戻らずそのまま東京の美容室『HairCreationTOKYO』というお店に就職した。

 

「東京の美容師」というブランドは得たものの、特に有名になるでもなく普通のどこにでも居る美容師だった。蛙の子は蛙で、トンビは鷹を産まなかったようだ。麻美との出会いはこのお店だった。スタイリストデビューした初日のしかも初めてのお客様が麻美だった。その時は結婚するなんて想像もしてなかったが、幸せな日常を送っていた僕がこんな感情になるなんてことも想像していなかった。。。

 

 

シャワーの音。

 

 

 泡あわの頭を手慣れた手つきで流し、身体を泡あわにした。

 

「凛、お前も洗うか?」

「うん! パパ洗ってー!」お前の言う事ならなんだってしてあげるさ。

 

 今度は娘を泡だらけに。

 

 二人でモコモコになり、幼稚園での話やお友達の話、五歳なのに時々恋話。キャッキャ キャッキャ言いながら風呂に入る。普通であることの幸せ。なのになぜこんなにも過去を考えてしまうんだろう。。。そんな僕の気持ちを見透かしたように凛が質問してきた。

 

「ねぇパパ、なんでママとケッコンしたの??」 子供あるあるだ。

 

「なんでかなぁー、、気がついたらママと結婚してた ハハハ」

 

「なにそれー 変なの!」

 

「変か? ハハハ!」 何故か曖昧な答えしか出てこない。

 

 そもそも『何故麻美と結婚したのか。。』凛をフカフカのバスタオルで拭きながらあらためて考えてみたが、愛しているという事実に嘘はないが、、、がだ。『これだ!』というハッキリとした答えは見つからなかった。ごめんよ、、、麻美。。。

 

 凛の濡れた髪をドライヤーで乾かし寝かしつける。その間に麻美はお風呂に入る。ほぼ毎日がこの流れだ。我が家のルーティンみたいなものだ。

 

「ねぇパパ!凛もいつかケッコンするのかな??」

 

「そりゃーするでしょ」(本当はして欲しくない)

 

「パパさみしいでしょ??」イタズラ顔で僕を見つめる。

 

「ん?そーだなぁー、寂しいような、、嬉しいような、、複雑だな。。そうだ! パパよりカッコよかったら諦めがつくかな~」(9:1でさみしい)

 

「そっかぁ! じゃーパパよりカッコいい人みつけよーっと」

 

「いつになることやら ハハハ」(出来ればそんな日が来ない事を願う)

 

「パパ、、、おやすみ…」

 

 子供はいつも全力だ。さっきまで話してたのに、、もう寝息を立てている。

 

「おやすみ…」 電気を消しそっと扉を閉めた。

 

 

 カチャン。。

 

 

 静かな廊下に無機質な音が響く。今日という日が一段落したかのようにその音は何処かに吸い込まれていく。

 

 リビングに戻ると、麻美が風呂上がりのバニラアイスをスプーンでほじくり返しているところだった。これは麻美のルーティンだ。

 

「あ、一馬ありがとう、あなたも食べる?」ニッ と笑って右手のカップを僕に向ける。

「太るからいい」

「当てつけか! 」

 

 そして今日が終わっていった…。

 

 普通であることの幸せ。  普通って、、、なんだ?

 

 

 いつもの朝。

 

 

朝食を食べ、仕事に行き、麻美は凛を幼稚園のバスに乗せ見送る。帰宅し晩御飯を食べ凛とお風呂に入り寝る。こんな毎日をくり返いていたある日、「普通」をひっくり返す出来事が起こった。きっかけは些細なことだった。

 

「トイレは座りションで!」とずっとお願いされていたのだが、どこか負けた気がするので何となくスルーしていた。いつもならそんなに怒らないのにこの日の麻美は違っていた。

 

「何度言ったらわかるの? 何回もお願いしたよね? いい加減にしてよ! 掃除する身にもなって!」

 

 一度言い出したら止まらない性格なのは長年の付き合いでわかっていたので、自分の中に今日まで書き記してきた『マミ取扱説明書』をめくった。

 

(ここは素直に謝った方が吉)そう記してある。

 

「ごめーん、今日から気をつけるから」(よし、これでいけるはず)そう思ったが、どうやら今回は収まりそうにない。もう一度取説をめくる。

 

(諦めなさい)そう記されていた。

 

 

 まぁ今までお願いを聞き入れなかった自分が悪いので自業自得だ。そう言い聞かせた。

 

ただおかしかったのが、この日から麻美が少しずつ怒りっぽくなっていったってことだ。

 

今までは笑って許してくれてたこと(洗濯物のたたみ方など)をガミガミと言うようになった。『座りション』を先送りにしたことを僕は何回も後悔する羽目になった。

 

そんな中救いだったのは、凛にはいつも通り接してくれていたことだった。時折何かを真剣に話しているような感じもあったけど、凛との時間は今まで通り幸せな時間が流れているようだった。

 

 あんなに笑いの絶えない家庭だったのに、目の前には白黒の風景が広がっている。『座りション、、』そんなに重大なことだったのか…。今となってはとても聞ける状態ではない。僕の中の『幸せな家庭』は少しずつ音を立てて崩れ始めていった。

 

 

つづく