香取慎吾『Not Too Good Not Too Bad』という曲について考えたこと。

『Not too good Not too bad』という曲のことをずっと考えていた。
ツアーファイナルで、香取慎吾はこの曲をうたった。というとこの日だけ特別に歌ったみたいに聞こえるけどそんなことはなくて、昨年のフェスでもツアー初日でも同じ位置で披露されたし、もっと言えばアルバムでも同じ流れに配されている曲なので、このタイミング=ライブの最後に歌われる曲であることを俺は知っていたし、なので、あ、もうライブ終わりだし、ここでやるな、ってわかって、実際その通りに、予定通りに、イントロが鳴らされた。
で、そのイントロから、ラストの幕切れまで、おれはずっと、おおげさでなく本当にずっと、涙を、というか嗚咽しづつけながら、この曲を聴いた。
その日の朝から灼熱の名古屋の街を歩いて熱を帯びた半袖からあらわになる右腕に、俺の頬からぼたぼたぼたって涙が落ちて、びっくりした。いや知ってたじゃん、この曲さいごにやるって。なんで俺はこんなことになってるんだろう。わけもわからずだーだー泣きながら、眼の前の香取慎吾と彼とともに舞い踊るダンサーたちの姿、そして耳に飛び込んでくるバンドが鳴らす音や声たちにただただ身を委ねた。
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俺は、『Not too good Not too bad』という曲のことをずっと考えていた。
『Circus Funk』というアルバムでこの曲を初めて聴いたときから、アルバムにおいて、そして香取慎吾のディスコグラフィにおいて重要な一曲だとすぐに思った。だけどその理由を言葉にして言い当てることがずっとできないでいた。『すいか』ってドラマ(ドドドド傑作なので全員観るように)に<何に引っかかってるんだか、私――(考えるが思いつかない )あー、解明されない事があるって、苦しいこと!>という台詞があるんだけど、それに似た気分だった。
きくたびに心を動かされるのは確かなのに、その理由がずっと、何度アルバムを聴いても何度ライブを観ても、判然としなかったのだ。
ライブが終わって、会場を出て、えげつない西日を浴びながらなんとかセントレアの中のフレッシュネスバーガーにたどり着いて、でも帰りの電車まであんま時間が無いことに気づいて、慌ただしくキンキンに冷えた生ビールで揚げたてのポテトを流し込みながら、なんできょうあの曲であんなに泣いたんだろうと反芻しながら、スマホのメモに思い浮かぶ言葉を打ち込んでいった。
ライブが終わってしまう寂しさがそうさせたのか? 違う。きょうも、これまでだって、あの曲を聞いているとき俺は、寂しさを感じたことなんて一度もなかった。
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この曲のパフォーマンスでは、香取とダンサーたちのやり取りが印象的だ。
「SNGダンサーズ」と称される彼らは今や香取のライブには欠かせない存在で、そんな彼らひとりひとりと香取はこの曲で、とても親密にコミュニケーションを交わすようなアクティングをする。この日はファイナルということもあってかより熱っぽさを増していて、もうすぐ終わってしまうライブの時間を慈しんでいるようだった。
俺はこれまで(昨年のフェスや初日の代々木では)この香取とダンサーたちのやり取りを、ライブの最後に交わされる香取と彼らの別れの瞬間のスケッチだと思って観ていた。
でもこの日の彼らの姿はそれともちょっと違うようにみえた。ここまで、まさにいまこの瞬間まで互いに生きてこられたこと、そしていままさに生き合っていることを祝い合っているように見えたのだ。
「生き合う」って言葉は聞いたことがないので俺の作った適当な言い方かもしれないけど、でもそういう姿に見えた。ひとりきりで生きてるんじゃくて、いまこのときを一緒に生きていることを祝福しあっている、そういう姿に見えた。
思えば『Circus Funk』というアルバム=キャリアも出自もバラバラのアーティストとのコラボレーションによって生み出された11曲それ自体が、自分と異なる他者と互いの価値観を尊重しあい交わることでどんな新たな表現を生み出しうるか、というトライアルの結実にほかならない。
この日ゲストで登場したSHOW-GO、LEO(ALI)、乃紫、この3人同じステージを踏み互いに敬意を交換し合いながら自らの表現を爆発させる、そんな現場は他にはそうそうないだろう。
異なる人間同士が関わることで生まれる多面性こそを尊び、そこから生まれた新たな音楽を表現する。互いに違うこと、異なる存在であることをひっくるめて愛そうとするアティチュードがアルバムには通底しているし、特に『Not too good Not too bad』という曲にもそういうことが端的に表現されている。
その象徴とも言えるのがサビ前の<あの景色は僕の記憶の中にしか残っていない><その輝きは君の記憶の中にしか残っていない>というフレーズだろう。意味は反転しているけれどまったく同じことを繰り返し言っている。僕と君は違う。それぞれの日々を、共有し得ないかもしれない記憶を、輝きを抱えて生きている。僕と君は、違う。そういう異なるもの同士が生き合うということについての歌なのだと思う。
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曲の終盤、彼は親密にやり取りしたダンサーたちから離れて、ひとりでセンターステージへと向かう。
ぐいぐいとグルーヴを増す演奏と、コーラス隊のNot too good Not too badというリフレインが耳に飛び込んでくる。
アウトロでこの日彼は、体を揺らし、顔をくっしゃくしゃにして、声を張り上げて叫んだ。
「ままならない人生! ヘイ!!!」
「最高でもないんだけれど!!!」
イントロからまったくおさまらない俺の嗚咽はこの香取の咆哮でピークを迎えて、ますますぼやけていく視界のなか、目に映る香取さんと、耳に聞こえる彼の声、その一瞬一瞬のすべてを受け止めた。いまこの瞬間のすべてを忘れたくないと思った。
ままならない人生。
最高でもないんだけれど。
ままならない人生。
最高でもないんだけれど。
最後に咆哮一発、高らかに吠えて、俺の視界から彼の姿はなくなった。
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『Circus Funk』というアルバムには、全編通して曲間がほぼない。箇所によっては1秒もないくらいかなり詰められていて聴き心地としてはDJミックスを聴いてる感覚に近く、そのぶん没入感もかなり強くてアルバムの完成度に大きく貢献していると思う。
その感覚はライブにも受け継がれていて、過去曲をうまく散りばめながらアルバムの曲順通りに披露するセットリストは曲順にやることこそが最良のエンタメになり得るということの何よりの証左で、『Circus Funk』という作品の完成度を裏付けるものだったと思う。アルバムもライブもとにかく没入感が強くて、音楽家・香取慎吾の表現として間違いなく沸点を更新したと思う。
そんな作品を引っ提げたツアーの最終日のMCで、香取はこんなことを話した。
「あいつら(日常)、てごわいから!」
「でもさ、今日のライブで、しあさってくらいまではいけるでしょ?」
「しあさってまでは大丈夫だって!」
すごくないですかこれ。あんなに最っっっっっっっっっっっっっっ高なアルバムのツアーの“効き目”を、せいぜいしあさってまでくらいだよね、と見積もってるのだ、彼は。笑った。自己評価シビアすぎるだろ。おれがどんだけあなたのライブの“効き”によって生きる喜びを享受してると思ってんだ、あんたは。
そう言ってのけた彼は、『Circus Funk』というひたすら没入できる夢の時間を、きっちり、容赦なく、終わらせようとする。おれらの人生はままならないもんだって、最高でもないもんなんだって、このライブだってせいぜいしあさってくらいまでしか効かねーんだよって、そうやって、ちゃんと、満身創痍で作り上げた夢の世界を、おわらせようとする。
メインステージで笑顔で手を降るダンサーたちの姿が、閉じられていく巨大な真紅の幕の向こうに消えていく。
センターステージで、ついにほんとうにひとりになった香取が、ほんとうに、ほんとうに最後のフレーズをうたった。
<そんな君も愛してあげよう>
そううたったあと、咆哮、一発。瞬間、暗転。
おれの視界から彼の姿は消えて、ビートもコーラスもあらゆる音は止み、ライブは終わった。
おれは、自分でもよくわからない、うわああああああ”あ”あ”あ”!!!!というかんじの、なんかすごい声を上げた。彼に聴こえてほしい、届いてほしい、そう思って、大きな声をあげた。
そのあと、一般発売で取った、後ろから数えたほうが早い列の席のパイプ椅子にしずかに座り込んで、真っ暗になったステージを、ようやく落涙がおさまりつつある両目でぼんやりとながめた。
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ステージから去った彼によくわからない大声を上げたときの自分のことをいま、思い出す。
あのとき俺は、たぶん、信じた、信じようとしたんだと思う。何を。端的に言えば、人の善性のようなものを、だ。
人は紛れもなく善いものである。と、今のおれはさすがに口がさけても言えない。この日は選挙の投票日だった。例えばおれは同性愛者なのだけど同性婚やLGBTQへの理解増進に明確に反対し外国籍の方へのデマと偏見を煽り核保有はコスパが良いと言う政党が大きく票を伸ばしたことをライブがおわったその日のうちに知った。例えばガザでは今も一般市民がありえない虐殺行為で命を落としている。まあひどいもんですよ。人間はもう終わりだ、って真心ブラザーズが歌ったのが2001年らしい。なにもかわってないんだな。
でも、少なくとも、人には善いところが少なからずある。人間、そこまで最低じゃないよな。人ってもっと善いもので有り得るよな。そういうことを信じたくなったのだ。<そんな君も愛してあげよう>とうたわれる、あの曲をきいているあいだ。
ままならない、最高でもない人生を生きるおれ(ら)の存在を、あの瞬間、香取慎吾はたしかに肯定(しようと)し、愛(そうと)した。すごくユニークな、彼にしかできない美しいやり方で。
で、それはあの瞬間だけじゃなくて、『Circus Funk』というアルバムを、そして『Not too good Not too bad』という曲を再生すればきっといつでも何度でも感じることができる、そういう強固な肯定のメッセージなのだ。
ソロ3作目でそういう音楽を鳴らした香取はこの日こういうことも言ってた。「このアルバムを作って、よしこれからも音楽やっていくぞってなったけど、多分これからきっと長い旅になるよ? みんな大丈夫?」
ふはははは、こんな愛の言葉、はじめてきいたなあ。のぞむところじゃんねえ、こんなこと言われたら。
この曲を聞いてあふれた涙の理由は、べつにもういい。それは大した問題じゃなくなった。
ままならない人生。
最高でもないんだけれど。
ままならない人生。
最高でもないんだけれど。
そんな俺自身のことを、そしてきっと俺と変わらず同じようにそんな日々を生きているんだろう香取慎吾のことを、そしてそんな俺らをひっくるめたこの世界のことを、俺ももういちど愛してあげようと思う。
できるよね、できるよな、おれにだって。
それが『Not too good Not too bad』という曲を受け取って、ぼたぼた涙を流して嗚咽した俺がいま、したいことなのだ。