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まーどうでもいい話なんだけど、せっかくなので。
SMAPでロックっぽい曲といえば、今の気分なら『トイレットペッパーマン』。
"ロックである"とは果たしてどういうことなのかというと、“とにかくロックっぽい”ということである。いくら「これはロックではない」と言い張ろうが、ロックっぽいものは問答無用でロックであり、いくら「これこそがロックだ」と言い切ろうが、ロックっぽくないものは誰がなんと言おうとロックではないのである。ロックとは、そういうあやふや、かつ厳格なジャッジがなされるものなのである。ではそのジャッジの基準はどこにあるのか、というと、これも当然の話で、それぞれの心の中にしかない。酒に酔って「モノホンのロックって言うのはさあ」と語り始める人を見て「あ~出た、空気読めないバカ」と冷笑する奴らがいるが、奴らは自分の中に、人に語れるだけのロックが無いことに劣等感を感じているため、そういう悪態を吐くことで自我を保っているだけなのである。そういう空っぽロック野郎に限って、ロックを自称しながら全然ロックでない非・ロック雑誌の表紙になっている非・ロックバンドの非・ロックCDを愛聴して「時代の空気を読めてるロックな自分」に酔い切っていたりするのである。
とは言え注意したいのは、自分の中の“ロック・ジャッジ”の基準も日々、更新されているということだ。ついこの間も、それまでほとんど関心の無かったEXILEが、大量にメンバーを増やした事件をきっかけに急遽ロック側に更新されたばかりだ。場の空気を読むことが親の死に目に会うことよりも重要視される今の日本において、あの“わけのわからなさ”は、ただごとではない。そこにどうしようもなくロックを感じてしまったのである。あと堂本剛の新ソロ・プロジェクトのネーミングもロック以外の何物でもない。EXILEや堂本剛のやっている音楽がロックかどうか、という話はどうでもいい。自分にとって、彼らはどうしようもなくロックっぽい。その感じ、フィーリング、をいかに受信するか。それには先入観を捨て、広い視点で物事を捉えなければならない。ロックはあらゆるところに潜んでいる。油断してはならない。急に「アド街」あたりからロックが飛び出てたりするのが、ロックの不思議であり、奥深さでもあるのだ。「アド街」に潜むロックを受信する感受性。この繊細さ・高感度さが、これからのロック・ファンには必要だと思うのである。
そんな中、ここ1、2年、懸案となっているものがある。ライブ会場でよく見かけるのだが、観客が肩を組み合って輪を作り、音楽に合わせて回転する儀式(注:正式な儀式名を知らないので、便宜上「輪っかづくり」と呼ぶことにします)である。
輪っかづくりは、基本的にパンク、ロック系のバンドのライブでよく行われているようなので(すみません、ホントによく知らないのです)、その事実だけ見れば文句なくロックと言い切れそうな気もするのだが、いかんせん、先ほどから力説している「ロックっぽさ」に欠けるのだ。まず、ロックは基本、大勢で回ったりしない。ステージ上でグルグル回転し、シールドに巻かれて横転。あるいは客席で足を踏んだ踏まないの口論の末に喧嘩、顔を殴打され体がグルッとひねって一回転、そして横転。これらは回りながら、しかもかなりのロックっぽさを醸し出しているが、ここで注目したいのは、いずれの場合もひとりで回転している点である。ひとりで自棄的に回転するさまにはピエロのような滑稽さがあり、それが翻って孤独感を演出し、ロックっぽさを生んでいるのであるが、しかし輪っかづくりの場合、ひとつの輪っかに平均して10人前後の人員を必要とする。さらに大規模なものになると、数10人単位の輪っかが場内に複数生まれ、まるで真夏の天気図のような状態になることも珍しくない。しかし、大人数の人間が肩を組んで輪っかを作り、音楽に合わせてグルグル回っている姿というのは、ロックっぽさ、というより、レクリエーションっぽさ・お遊戯っぽさが色濃く漂うものなのである。鳴ってる音楽はロック、聴いてる客もロック、そこまではいいのだが、なぜか輪っかを作りそして回ってしまうことで、見てるこちらには“ロック版おかあさんといっしょ”といった意味不明のイメージばかりが浮かんでしまい、肝心のロック・フィーリングがちっとも感じられないという由々しき事態を招いてしまうのだった。しかし、元々輪っかづくりが行われる類の音楽をほとんど聴かない自分にとって、それ自体は正直そこまで由々しいわけではないし、それどころかこの輪っかづくり、すでに10数年の歴史をお持ちとのこと。そんな由緒ある儀式に対してイチャモンをつけるほど心が狭いわけでもない。問題は、特に“輪っかづくり系”と認識していなかった、自分が贔屓にしているバンドのライブで、ここ1、2年、件の輪っかづくりが行われるようになった事態についてなのである。ちょっと待て、と。奴らが奴らのシマで勝手にグルグルグルグル回る分にはいいよ。楽しそうだし。たださあ、俺のシマを荒らすのは止めてくんないかなあ。邪魔なんだよ。迷惑なんだよ。空気読めよ。思わずそう呟いてしまったのだが、そんな自分は前述の空っぽロック野郎と同様、非常にさもしく、全くもってロックっぽくないのである。しかも最近某ライブ会場で見た輪っかづくりはさらに進化していて、肩を組むこともせず、叫びながら駆け足で場内を周回するという、ちびっ子運動会の様相を呈しており、激しいバンド演奏を聴きながらちびっこ運動会に興じるキッズの方々というのは、それはそれで逆にロックなのかもしれない、と、不本意ながら、またひとつ自らのロック・ジャッジを更新せざるを得ない俺なのだった。
SMAPでロックっぽい曲といえば、今の気分なら『トイレットペッパーマン』。
"ロックである"とは果たしてどういうことなのかというと、“とにかくロックっぽい”ということである。いくら「これはロックではない」と言い張ろうが、ロックっぽいものは問答無用でロックであり、いくら「これこそがロックだ」と言い切ろうが、ロックっぽくないものは誰がなんと言おうとロックではないのである。ロックとは、そういうあやふや、かつ厳格なジャッジがなされるものなのである。ではそのジャッジの基準はどこにあるのか、というと、これも当然の話で、それぞれの心の中にしかない。酒に酔って「モノホンのロックって言うのはさあ」と語り始める人を見て「あ~出た、空気読めないバカ」と冷笑する奴らがいるが、奴らは自分の中に、人に語れるだけのロックが無いことに劣等感を感じているため、そういう悪態を吐くことで自我を保っているだけなのである。そういう空っぽロック野郎に限って、ロックを自称しながら全然ロックでない非・ロック雑誌の表紙になっている非・ロックバンドの非・ロックCDを愛聴して「時代の空気を読めてるロックな自分」に酔い切っていたりするのである。
とは言え注意したいのは、自分の中の“ロック・ジャッジ”の基準も日々、更新されているということだ。ついこの間も、それまでほとんど関心の無かったEXILEが、大量にメンバーを増やした事件をきっかけに急遽ロック側に更新されたばかりだ。場の空気を読むことが親の死に目に会うことよりも重要視される今の日本において、あの“わけのわからなさ”は、ただごとではない。そこにどうしようもなくロックを感じてしまったのである。あと堂本剛の新ソロ・プロジェクトのネーミングもロック以外の何物でもない。EXILEや堂本剛のやっている音楽がロックかどうか、という話はどうでもいい。自分にとって、彼らはどうしようもなくロックっぽい。その感じ、フィーリング、をいかに受信するか。それには先入観を捨て、広い視点で物事を捉えなければならない。ロックはあらゆるところに潜んでいる。油断してはならない。急に「アド街」あたりからロックが飛び出てたりするのが、ロックの不思議であり、奥深さでもあるのだ。「アド街」に潜むロックを受信する感受性。この繊細さ・高感度さが、これからのロック・ファンには必要だと思うのである。
そんな中、ここ1、2年、懸案となっているものがある。ライブ会場でよく見かけるのだが、観客が肩を組み合って輪を作り、音楽に合わせて回転する儀式(注:正式な儀式名を知らないので、便宜上「輪っかづくり」と呼ぶことにします)である。
輪っかづくりは、基本的にパンク、ロック系のバンドのライブでよく行われているようなので(すみません、ホントによく知らないのです)、その事実だけ見れば文句なくロックと言い切れそうな気もするのだが、いかんせん、先ほどから力説している「ロックっぽさ」に欠けるのだ。まず、ロックは基本、大勢で回ったりしない。ステージ上でグルグル回転し、シールドに巻かれて横転。あるいは客席で足を踏んだ踏まないの口論の末に喧嘩、顔を殴打され体がグルッとひねって一回転、そして横転。これらは回りながら、しかもかなりのロックっぽさを醸し出しているが、ここで注目したいのは、いずれの場合もひとりで回転している点である。ひとりで自棄的に回転するさまにはピエロのような滑稽さがあり、それが翻って孤独感を演出し、ロックっぽさを生んでいるのであるが、しかし輪っかづくりの場合、ひとつの輪っかに平均して10人前後の人員を必要とする。さらに大規模なものになると、数10人単位の輪っかが場内に複数生まれ、まるで真夏の天気図のような状態になることも珍しくない。しかし、大人数の人間が肩を組んで輪っかを作り、音楽に合わせてグルグル回っている姿というのは、ロックっぽさ、というより、レクリエーションっぽさ・お遊戯っぽさが色濃く漂うものなのである。鳴ってる音楽はロック、聴いてる客もロック、そこまではいいのだが、なぜか輪っかを作りそして回ってしまうことで、見てるこちらには“ロック版おかあさんといっしょ”といった意味不明のイメージばかりが浮かんでしまい、肝心のロック・フィーリングがちっとも感じられないという由々しき事態を招いてしまうのだった。しかし、元々輪っかづくりが行われる類の音楽をほとんど聴かない自分にとって、それ自体は正直そこまで由々しいわけではないし、それどころかこの輪っかづくり、すでに10数年の歴史をお持ちとのこと。そんな由緒ある儀式に対してイチャモンをつけるほど心が狭いわけでもない。問題は、特に“輪っかづくり系”と認識していなかった、自分が贔屓にしているバンドのライブで、ここ1、2年、件の輪っかづくりが行われるようになった事態についてなのである。ちょっと待て、と。奴らが奴らのシマで勝手にグルグルグルグル回る分にはいいよ。楽しそうだし。たださあ、俺のシマを荒らすのは止めてくんないかなあ。邪魔なんだよ。迷惑なんだよ。空気読めよ。思わずそう呟いてしまったのだが、そんな自分は前述の空っぽロック野郎と同様、非常にさもしく、全くもってロックっぽくないのである。しかも最近某ライブ会場で見た輪っかづくりはさらに進化していて、肩を組むこともせず、叫びながら駆け足で場内を周回するという、ちびっ子運動会の様相を呈しており、激しいバンド演奏を聴きながらちびっこ運動会に興じるキッズの方々というのは、それはそれで逆にロックなのかもしれない、と、不本意ながら、またひとつ自らのロック・ジャッジを更新せざるを得ない俺なのだった。