010 | オーヤマサトシ ブログ

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諸事情により、001の記事はいったんお休み。
箸休めに、没原稿パート2。
これは読み返すのが恥ずかしい・・・。
全然似てないんだけど、たぶん菊地成孔を意識してる感じがする。
言ってることはわかるんだけど、結論もなんだかなあ。
ま、こりゃボツるわ、って感じの。



スマスマ、夜空ノムコウ、いい! アレンジいいじゃん。
キムタクが口笛もため気味で笑った。つーかほんとにいい曲な・・・。
去年のツアーで、元アレンジのままで聴けてすげー嬉しかった。つーか泣いた。
今だからあの曲が沁みるんだなーと。

で、なに、今年は昔の曲をどんどんやってく感じなのか?? 期待していいのか??
シングルだったら「胸騒ぎを頼むよ」と「朝日を見に行こうよ」と「友達へ」をリクエスト。




あ、久々に「夜のピクニック」を読んでいる。恩田陸最高。
「ユージニア」のアマゾンのレビュー読んだけど、
結末に不満持ってる人がけっこういて、ふーんて感じ。
個人的には「ユージニア」最高。BGMはキリンジ「冠水橋」で。






もしもヴォーカルが髪を切ったら~音楽と見た目の関係


「人は見た目が9割」という本がある。ずいぶん売れたような気がする。しかし勉強不足で申し訳ないのだが、実はまだこの本を読んでおらず、正直タイトルすらうろ覚えな訳だが、このタイトルは一体どういう意味なのだろうか。確かこの本は「人が他人を判断するとき、その9割を見た目で判断している」ということを延々と説いている内容なのだと、以前母が言っていた。9割という数字の根拠も知りたいが、それ以前に、仮に人の9割が見た目だとして、著者は残りの1割を何だと定義しているのだろうか。わたしたちの肉体を形成しているもの(筋肉・血液・皮膚など)は全て「見た目」に反映されるものと考えると、人は見た目=肉体が9割で、それ以外が1割、ということなのだろうか。それ以外、つまり人を構成するうえで肉体のほかに必要で、しかも全体の1割を占めているもの。本の内容を察するにその一割とは、おそらく心とか、感情とか、そういうものを指すのだろう。これは果たしてどうなんだろうか。何の疑問もなく賛成するのは難しいが、とりあえず、良くも悪くも興味を惹かれるタイトルであることは間違いない。

しかし人というのは不思議な生きもので、その人の心や感情、さらには生まれ育った歴史や思想といったものまで、見た目に現れることがある。というかほとんどの人は、その生き様が肉体のどこかしかに現れていると思う。最近衝撃だったのが、グッドウィル・グループの社長の顔だ。彼についてはワイドショーで得た知識しかないのだが、一体どんな人生を送れば、あのような顔になるのだろうか。新聞の一面に載っていた、謝罪会見の写真を見て俺が思ったことは、失礼を承知で言うと「ええ、殺し屋の目じゃんこの人」だった(ちなみに俺は本物の殺し屋の目など一度も見たことがない。本当の殺し屋の目というのはああいう、異常に鋭くどこまでも底の見えない感じではなく、案外優しげなのかもしれない。そして言うまでもなく「彼が殺し屋である」などと言っている訳ではもちろんない)。話が大きく逸れた。とにかく、見た目と内面は決して切り離されていることばかりではない、ということは間違いないだろう。

では、音楽において見た目とはどのような影響を及ぼすものなのだろうか。2007年の今「音楽と見た目」というテーマで語ろうとした時、まず避けて通れないのはサンボマスターだろう。彼らは自らを「ブサイク」と公言している。確かに、ドラム木内氏はギリ普通レベルとしても、まあ全体的に見てブサイクな人達で構成されたバンドであることは明らかだ(自分を棚に上げて何を言ってるんだって話だけど、便宜上とりあえず断言しとかないと話が進まないので)。しかしサンボマスターというバンドの表現の本質は、もちろんそのブサイクさなどではなく、彼らが鳴らしている音楽である。では彼らのブサイクさは、彼らの音楽に果たしてどれだけの影響を与えているのだろうか。一つ例を出して検証してみよう。

KAT-TUN亀梨君(の顔をしたサンボ山口氏)「私はねえ! あんたがたにねえ! 伝えたい訳ですよ!! ガッ!!」
KAT-TUN赤西君(の顔をしたサンボ近藤氏)「愛と平和! 愛と平和!(コーラス)」
KAT-TUN田中君(の顔をしたサンボ木内氏)「ドカドカドカドンドンドンドン、ドンッ!!(ドラム)」

入れ替わっているのはあくまで顔だけ。曲や声や演奏はサンボそのままとして考えて欲しい。いかがだろうか。個人的にはこんなサンボ、正直あまり見たくない。何かムカつくし、もの凄く薄っぺらいメッセージに聞こえてしまう気がする。鳴っている音楽そのものは同じなのに、この違和感は一体何なのだろう。

そもそも、CDを買うとかダウンロードするとか、ごく一般的な方法で音楽を聞こうとした場合、「音楽そのものを聞くことしかしない」人は少ないと思う。それが積極的なのか、もしくは不可抗力なのかは別として、CDジャケットや広告やHPなど、様々なかたちで「音楽そのもの以外の情報」と接しているはずだ。特に、特定のアーティストのファンにとっては、アーティストの情報は積極的に収拾する対象であろう。中でも見た目に関する情報には鋭く反応するものだ。「ヴォーカル、今度はあんな髪型にしちゃったよ」「ドラム、ちょっと太った?」ライブ会場に行くと、こういう会話を必ず耳にする。音楽を聞いているはずなのに、なぜ人は見た目にそこまで執着してしまうのか。「ビジュアル系」と呼ばれる人達のように、見た目そのものが表現の核になっているバンドならともかく、等身大のメッセージを歌う正統派ギターロックバンドでさえ(だからこそ、なのか)雑誌で着る服一着にも視線を注がれている現実。それは一体、何を意味しているのだろう。

結論を言えば、音楽というのはその作り手の見た目(というより人となりそのもの)が大きく反映されているものなのである。実在のバンドを例に挙げてみよう。表記は「バンド名:見た目の印象」となっている。「Dragon Ash:怖そうだけど話してみると気のいいアンちゃん」「チャットモンチー:かわいい中にも芯が通っている」「ZAZEN BOYS:HENTAI」「マキシマム・ザ・ホルモン:とにかく濃い」「ボアダムス:宇宙人」いかがだろうか。個々の表記に関しては賛否もあるだろうが、音楽性と見た目の印象は合致することが多い傾向があるのは確かではないだろうか。
そしてわたしたちも、やはり音楽と見た目をセットで受け取っているのだ。先ほど例に出した、KAT-TUN亀梨君の顔のサンボ山口氏に感じた違和感の正体とは「こんな顔の人からあの生々しい音楽が生まれる訳がない」という感情ではないだろうか。これは逆に言うと、山口氏の「ブサイクさ」と彼の鳴らす音楽にはズレがないということだ。この考えを押し進めると「作った人がブサイクだからこそサンボの音楽は輝くんだ」という思考回路に行きつく可能性もある。この場合、サンボの音楽の価値が「見た目のブサイクさ」によって定義され、場合によっては価値が上がることがあり得ることになるのだ。そんなバカなことがあるか、と思うだろうか。もう一つ、ライブ会場における「ヴォーカル、今度はあんな髪型にしちゃったよ」という会話である。あれは「ヴォーカルが髪型を変えたことによって、音楽と見た目の整合性にズレが生じたことに対する違和感」を訴えているのではないだろうか。この考え方は極端な場合「見た目がおかしくなったせいで音楽まで嫌いになってしまう」という悲劇を引き起こしかねない。そんなことが起きたらそれこそ本末転倒なのだが、例えばアイドルのように「見た目が存在理由の大部分を占める表現者たち」にとって、そのようなファン離れの仕方は日常の光景である。そしてその現象はアイドルにとどまらず、急激にセールスをのばしたロックバンド等にも頻繁に起こりうることなのだ(例「このバンド売れてから急にオシャレになってさ、なんかムカつくよねー」)

この書き方では、音楽と見た目をセットにすることが悪いことのように取られてしまいそうなので一応断っておくと、これは別にいいことでも悪いことでもなく、普通のことだと思う。元々音楽を愛する気持ちからそのような考え方をするのだから(音楽そのものに興味がない人にとっては見た目など関係ないだろうし、見た目先行であとから音楽に興味を持つというケースも珍しくないが、これも単に順番が逆なだけで、それで音楽に対する愛情が薄い等と言える訳がない)責められるべきことでは全くないし、ポリシックスやビートクルセイダーズといった、音楽と見た目の関係を有効利用しているバンド達もいる。むしろ音楽と見た目の関係に気が付くと、また違った視点から音楽を楽しむことができたり、よりアーティストに対する愛情が深まるきっかけになる可能性もあるのではないだろうか。しかしいくら見た目が好きだとしても、音楽を愛する者としては、間違っても「音楽は見た目が○割」などという無神経で下品な言い方はしたくないものである。