何だかんだ言っても中国の滞在が終わりました。
海外初体験、中国語はもちろん英語もロクにできない、情報無い、期間五か月
振り返れば、よく来ようという気になったな、と思うレベルです。
案の定、中国に来てからは随分と戸惑いました。
常に行き当たりばったりの計画性の無さ、新規に取り組もうとする行動力の無さ、習慣に甘んじる発展性の無さ
目的意識の無さ、手を出し掴み取ろうとする貪欲さの無さ、自分の事しか見る事ができない狭量さ
前々から分かっていましたが、そういった自身の未熟さを切に痛感しました
結果として、研究もロクにできなかったし、また、中国語も中途半端で終わってしまった。
そして、最終日になっても「得た物はなんだろう」と悩んでいると
ただ
思えばここまで未熟な自分が内容はどうあれ最後まで居られたというのは
温かい人たちに囲まれて、日本の先人たちが築いた信頼もあるけれど
日々の態度であれ、礼儀であれ、自分という人間に対しての評価が
手を差し伸べてあげよう、という気持ちにできるくらいは評価されていたのかな、と
そして、少しだけ自分の中で変わった部分もあると思う
具体的には変わった事といえば感謝と尊敬が増えた
滞在中に
「どうしてそんなに簡単に"謝謝"と言うんだ?」とか
「挨拶する時にさえ頭を下げるのはどうして?」とか
そんなことを言われました
感謝する、というのは誰かに"借り"を作っている訳だし
尊敬する、というのは自分が相手に劣ると認める訳でもある
言い分は分からなくもないし、自尊心があれば確かに難しい
ただ、気にかけてくれて嬉しい、というのが感謝の源だと思っています
嬉しいし、気を使われてばかりでは申し訳ないから
同じく誰かを喜ばせて恩返しをしたい、という気持ちになる
つまるところ、自分の中で"感謝"は、"嬉しいと感じたから"こそ発生する自発的な衝動で
相手が"何かしたから"発生する権利と義務による制約ではない
だから、些細な事で感謝しても全然おかしい事ではないし
その感謝を向ける対象も不特定多数で良いと思う
また、恩返しをしたい、或いは、自分も相手の様になりたいと願い
そのために、まず相手を適正に評価し学ぼうとする
それが尊敬の源流ではないか、と思います
即ち、自分が相手よりも劣っていると認めるけれど
同時にその根底には"相手の能力は学習可能である"という自信がある
だから"尊敬する"という事と"自尊心を保つ"というのは矛盾しない
問われた当時は自分の中でも当たり前すぎて日本語でも上手く表現できなかったので
今となっては、拙い英語でも良いから少しでも言えれば良かった、という後悔があります
それでも、異文化に触れて"当たり前"を日本語とはいえ明文化できたのは少しだけ自信を持っていいと思います
中国で滞在したけれど、まだ、何も得ていない
このままでは、中国に滞在した事は「中国で生活した」だけの事実で終わってしまう
しかし、学んだ、という事実は間違いない
価値のあった物にしていくためには、「学んだ事」をどう生かしてくるかにかかってくるのだと思います
こんな文章を読んで下さった方々に
謝謝合作!
