“書く”ということは自分にとって海を泳ぐイルカになるような作業だった。

 

高校3年生の秋に、宮部みゆきさんの「龍は眠る」「魔術はささやく」あたりを読みふけった。

父の「小説とか読んでみたらどうだ、意外と面白いぞ。最近は宮部みゆきという作家がおもしろいらしい、(読み終わった新聞をパタパタ揺らしながら)らしい」と、完全に伝聞で伝えてくれた。そして、ついでに「本屋でも行くか」と。

1冊目はどれだったか覚えていないけど、一気に読み終えた。というか、人生で初めて、映像を見るように文字を追いかけて、主人公の心臓の鼓動に合わせて自分も身震いし、涙が自然と溢れて心地良かった。1冊目を読み終えて、次の日にはもう一冊、もう一冊と、受験勉強そっちのけで読みふけった。

小学校〜中学校〜高校と、その間、本を読むことから逃げていた。母には「本を読みなさい」と言われていたけれど、推薦図書と記載された本は、カバーについている作者紹介とあらすじだけで、読書感想文の原稿用紙を埋めて提出した記憶がある。

いつだったか、”歴史限定”のときには、織田信長を選んだが、あとがきだけを読んで原稿用紙を埋め終えた記憶がある。そんな自分が、本を読んで、涙するとは思わなかった。

それこそ、直前の高校3年生の夏にジブリの「耳をすませば」がテレビでやっていた。その時は、「小説読んで泣けるとかすげぇ感受性だな。わかんないわ」と思っていた自分が、数ヶ月後には、「本を読んで泣くってこういうことか」と知ったわけだ。

受験勉強逃避活字まみれのその中の一冊が「パーフェクトブルー」だった。

その帯に、新人賞という文字が踊っていた。

 

そのときに「自分も、自分が見ている映像を、文字にしたいなぁ」とぼんやりと思っていた。ただし、手書きで書いて挫折した。腕が痛くなって、頭の映像に右手が追いつかなくて挫折した。3行くらい。

そこから、パソコンに移行した。消しゴムが不要だったことに利点を覚えて、何度も消しながら、文字を打っていった。E-メールでのやりとりや、チャットを学校の友達とやることを経て、タイピングが少しずつ早くなって、クチでしゃべるのと同程度に文字が打てるようになったとき、頭の映像と同じ速さで文字にできる心地良さを知った。

 

ホームビデオ用のカメラを構えて、主人公を追いかける、場面転換すれば、周囲を見回して、登場人物の声と無言を拾い集める。必死になって映像の海を泳いでいく。

セリフを拾って、一挙手一投足をリポートし、感情専門マイクが窓の外の天気をリンクさせる。

表現とか情景じゃなく、主人公が目を向ける、カメラに映らない画角の人物が、「アレアレ、あっち」と指差す。僕は「自分独自の表現」という感覚や意識が無かったので、「あぁ、そっちを書いたらこの1行になるんですね、ハイ。」と、登場人物に促されるまま見えるものを必死に文字に変えていた。

 

そういうのを「趣味」と呼ぶのだと、高校卒業近くの頃、知った。

勉強or部活の世界に、趣味が加わった。

趣味というのは気ままなもので、誰にも怒られないし、嫌な気分になることもない。「部活なんて狭い世界のイザコザにイライラしていた自分が馬鹿らしい」そんな気分を知った。もっと早く、文字の世界の自由さを知れたらよかったなぁ、高校生活無駄にしたなぁ、なんて思っていた。

 

スポーツはいつもなんとなく、不自由だった。野球をやっていたけど、自分の思った位置にバットが出ない、グローブがボール1個分足りない、失敗の中でコツを掴んだ瞬間に、監督から怒鳴られて気落ちする「今、いい感じだったんだよ、ただのミスじゃなくて、なんかイイ瞬間だったんだよ」と心で唱えながら、「そんなに言うなら、事細かに教えてくれよ、怒鳴る前に、何をどうしたらエラーゼロ達成できるのか、説明してみろよ、黒板あるとこ行くか?」と心の中で反抗していた。

いつも、不自由で、楽しい瞬間は記憶にない、つまらない思いをして、成長の手応えがなくて、イライラが続く。部活仲間の馴れ合いが不快で、輪に入りきれなかった。

だから、あの高校3年間の終わりに、部活動と入れ替わりで得た文字の世界の自由さは最高だと感じたのかもしれない。

 

そういう自由さを知って以降、時間をみつけては、頭の中に広がる世界に飛び込んで、脳の中の映像を追いかけながら、パソコン画面の中に打っていく文字遊びを繰り返した。

波でキラキラしている水面の輝きを見ながら、息を吸い込んで、せーので飛び込む。目を見開いて、映像の海に飛び込む。雑音が消えて、無音の世界が広がって、そこから世界の色がモノクロからセピア、フルカラーに満ちてくる。主人公の行動やセリフが聞こえてきて、性能の悪いマイクのボリュームを必死で上げて食らいつく。

飛び込む度に世界はちがって、だからこそ、息を止めていられる間、呼吸をしに水面に上がってくるまでの短い間に、ENDマークまでたどり着けるように必死で泳ぐ。とにかくジタバタしながら、想像の中の世界の言葉や音や温度や匂いに近寄っていく。

時折、登場人物に心配されながら、息継ぎをすることを許されたりするけれど、大抵は、自分のことなんか無視されるペースで物語は進んでいく。当然だ、登場人物ではないのだから、彼らの世界には居られない。登場人物の彼らも彼らで、作者のことは視界に入っているけど、見ちゃいけないことになっている、話しかけちゃいけないことになっている。そういうルールがある。「作者と話すとさ、この世界観崩れるでしょ、はい、この2行消して消して、続き進めるよ〜」なんておどけて笑ってくれた登場人物もいる。

 

構想を練るという手段があることを知ったとき「ツマラナイ道具だな」と思ったのが正直な感想だった。

世界の中をコントロールしようとする思想だし、全貌を明らかにして、まるで、プールの水を一旦全部抜いて、意図的な温度の水を入れて、そこで泳ごうとするもの。のように感じた。

だから、その時は、知っただけに留めて使わなかった。まだ、自分が感じている物語の海はずいぶんと広く深かった。

 

書くという作業も同じことを続けていると、だんだんと、コントロールできるようになってくる。

仕事の合間を縫って、書くことを続けていると、3時間あればどの程度の深さになるか想定して潜り始めることができるし、息継ぎポイントもある程度見通して潜り始める。

ただし、これをやると、書き終えられるけれど、未知の世界、想定外の出会いには入っていけないことに気づいた。

確かに海なのだけれど、網や堤防で仕切られた海水浴場に行く感覚だ。少しだけ安全で、サメのような脅威がない。ある程度の目標物を定めて泳ぎ切ることもできるし、泳ぎ切った後、もう一度帰って来ながら、修正できる。けれどその修正は、海の中に潜って近くで観察することではなくて、水面近くで頭だけ浸けて、水中眼鏡で遠くから再確認する程度だ。そんな感じ。

 

何もない海に挑むのは、体力も必要だし、何より、消耗する、磨耗する。

疲弊した身体は心地良いけれど、明日、労働(現実)が待っている。

ここ最近は、何もない海に飛び込み始める勇気が持てない。

かつて飛び込んでいた桟橋を、その桟橋で水着を来て、準備運動して今にも物語の海に飛び込もうとする過去の自分の姿を遠巻きに眺めながら、ぼんやりと、靴を履いたままベンチに腰掛けて、ただぼんやりと、手に持ったアイスコーヒーを飲むでもなくただ氷が溶けていくのを力なく見下ろしている感じだ。

 

書きたい気持ちはあるけれど、その気持ちは、かつて拒否反応を示していた、「構想を練る」という作業に惹かれていく。例の空っぽのプールが、確かにそこにあるのだけれど、南京錠で閉ざされた胸の高さまで程度しかない、そんなフェンスも、自分に立ち入り禁止と意思表示するには充分に思える。

少し前までは、フェンスの向こうのホースの周りに水が残っていたけれど、その水も今は見えそうにない。

 

近頃はそんな気分。

 

だから冒頭の一行も、

“書く”ということは自分にとって海を泳ぐイルカになるような作業だった。

過去形なのかもしれない。

 

今日は、そんな気分を打ち終えた程度には、元気なのかもしれない。