「次、おばあちゃんの番だよ!」
そう言って、僕はトランプを差し出す。
おばあちゃんは僕の手元に残った3枚のカードをじっくり見て、それから、1枚のカードを引く。
幼稚園に上がる前くらいだろうか、おばあちゃんといつもババ抜きをして遊んでいた。
覚えたてのその遊びに夢中になる僕。
最後に残るカード。その瞬間のドキドキを今でも思い出す。
『 最後のカード 』
*** 2 ***
@川上哲春 Tetsuharu Kawakami
その日も雨だった。
昨日の雪は積もらずに、そのまま雨になった。
夕暮れ。
窓から見える傘の流れは立ち止まらずにそのまま流れていく。
店を開けようかどうしようか迷って、けれど、毎日の流れにまかせて、OPENの札をドアに下げた。
ジャズのCDを開いて、PLAYボタンを押す。
本当はLP盤で聴きたい。
若い頃、お金も無いのに通ったバーで、マスターがレコード盤に針を落とす。
客は会話を楽しみながら、けれどそのレコードに針が落ちて、流れ始めるあの数秒間の雑音に心を奪われる。
期待と希望とが混ざり合う。その心の中に広がる複雑な感覚。
音に例えるなら、その雑音だ。
――この音がステキなのよね。
彼女は言った。
瑠璃子
その名前しか知らない。
肌が白くて、目が大きくて、いつもの朱い艶やかな口紅と、黒い髪が色っぽかった。
劇団に大道具見習いとして入ったとき、名前を聞かれた。
「川上哲春です」
そう名乗った私に、
瑠璃子。
とだけ告げた。
彼女もまだ若手だった。
けれど、演技の才能は抜きに出ていた。――気がする。
名の無い役で舞台に立っても、彼女は輝いていた。
彼女が言ったのだ。
――この音がステキなのよね。
打ち上げの二次会で寄ったバーで、マスターがレコード盤に針を静かに落としたとき。
頬を少しだけ赤く染めた彼女は、両手を頬に当てて遠くでレコード盤が回るのを見つめていた。
偶然隣に座った私の目をじっと見つめて、
――この音がステキなのよね。そう思わない、哲くん?
と微笑んだ。
ドアにつけたベルが鳴った。
お客が来る。
私は顔を上げた。
雨の日の最初の客は、30年ぶりに会った彼女だった。
「瑠璃子さん」
髪は白く染まり、けれど、真直ぐに私を見つめる目は、変わっていなかった。
彼女は傘をたたみ、ドアの傍の傘立てに静かに置くと、私の前のカウンター席に「ここ、いいかしら?」と断りをいれて、座った。
「お久しぶりです」
そう頭を下げた私に、彼女は「ずっと入ってみたかったの。Kawakamiって、もしかしたら、哲くんかも?って思って」と微笑んだ。
「なにか飲まれますか?」という私の問いに、彼女は「ノンアルコールでいいかしら?」と言った。
私はコップ一杯分のお湯を沸かして、セイロンの香りが広がる紅茶に、柚子のマーマレードを添えた。
結局その日、私は何も話せないまま、彼女は店を後にする。
去り際に「哲くん、お店がんばってね、体には気をつけてね」と当時と変わらない優しさと微笑みを残して。
それきりだった。
私は今日も店を開ける。
OPENの札を掛けながら店の前の道に目をやる。
彼女は来ないのだろうか。と。
だから、一日も休まずに店を開ける。
今日やっていれば、来てくれるかもしれない。
もしあの日、わざわざ遠くから来てくれたのだとしたら。
もし店を休んだその日、彼女がまたこの店を訪れたとしたら。
だから、私は一日も休まずに店を開ける。
62歳の今、30年ぶりに出逢ってしまったから。
結婚をし、娘も居て。
けれど、若き日にあこがれたまま届かなかった思いに、再会してしまったから。
私は今日もドアにOPENの札を下げる。
つづく