**シーン052 @景子
「眠れない?」
胸に『センター長』という名札をつけた看護婦さんが声をかけてくれた。
「明かりが、ついていたから」
私は、「ごめんなさい」と頭を下げた。
「眠れないのね」
優しい声に、私は「うん」とだけ言ってうなづいた。
ここ、座っていい?
私はうなづいて答えた。
私のベッドサイドの明かりに照らされて、看護婦さんの名札に「藤木淑子」という文字を見つけた。
「本、読んでいたの?」
「台本です」
「台本?」
「はい」
「見せてもらってもいい?」
私は、また、頷くだけで返事をして、藤木さんに台本を手渡した。
「演劇部?」
私は頷いて答えた。
藤木さんはやさしく微笑んで、「そう」と言ってページをめくった。
「演劇は、好き?お芝居」
私はまた、頷いた。
藤木さんは、また、やさしい声で、「そう」と言った。
静かな病室に、ページをめくる音だけが響く。
ふと見上げた時計の針は、夜中の2時を回っていた。
「私、42歳になってるらしくて」
藤木さんは台本を閉じると、静かに、「うん」と言って私の目を見つめた。
「だけど、昨日まで、高校行ってて」
時計の針が、時間を刻んでいく音がする。
静かに、だけど、確かに。
「25年経ったんです。今日は、私の知ってる昨日から」
藤木さんは、また、「うん」とやさしく頷いてくれた。
「なんて言ったらいいのかわかんなくて、ここの、胸の中に、ぽっかり、空洞ができたみたいに……」
手の甲のしわのひとつひとつが、私のであって、私のじゃない感覚。
それを言葉にしたくて、だけど、うまく言葉が繋がってくれない。
何も言えずに、私は、黙ってしまった。
藤木さんが口を開いた。
「時間って何だと思う?」
藤木さんは、ハイと言って、桃色のハンカチを私に差し出した。
そのとき、私は、私が泣いていることを知った。
「アインシュタインだったっけ?相対性理論。とかいう、例のアレ。時間を証明したの」
藤木さんは、「あれ?違ったっけ?」と笑って。続けた。
「その理論もね、あってるようで、あってないようで。私にはね、わかんないんだけど」
藤木さんは、台本を私に手渡した。
「時計は、同じタイミングで、ひとつひとつを同じように教えてくれるわよね。だけど、時には、1時間があっという間に過ぎていったり、今日の夜勤みたいに、ずいぶんとゆっくりとしか過ぎてってくれない日があったり」
藤木さんは微笑んだ。
「患者さんを、ずっと診てきたから思うところがあってね、」
私は頷いた。
「人って、結局のところ、『今』しか生きられないのよね」
藤木さんは時計を見上げた。
「『明日』とか、『昨日』とかじゃなくて、それに『今日』でもない。 『今』だけが、ここにあるの」
藤木さんは、私をまっすぐに見つめた。
「ある患者さんの、受け売りなんだけどね。86歳のおばあちゃんだったかな?私がまだ若かったころ。私が30歳になる前くらいかな? 『いい?トシコちゃん?人が生きられるのは、今だけなのよ』って」
その瞬間、藤木さんのポケットでPHSが小さく震えた。
「ごめんなさい、行かなきゃ」
藤木さんは立ち上がると、小走りで出て行く。
「眠れなかったら、そのまま起きててもいいのよ?」
笑顔をくれて、だけど、私が頷くこともできないまま、廊下を走っていった。
静かで冷たい病室に、独り置き去りにされたような気持ち。
だけど、
――人って、結局のところ、『今』しか生きられないのよね
その言葉が、少しだけあったかかった。
つづく