『 記憶 』


  ***シーン005 @峰島文雄


日下部が右手をあげてタクシーを拾った。
日下部に促されるまま先に乗り、行き先は、日下部に訊かれ、私が答えた。
運転手は急ぐ様子もなく、ただ日常通り慣れた間で後部座席のドアを閉めた。
「景ちゃん、どこか悪かったのか?」
日下部に訊かれた。
私は「いや」とだけ答えた。
日下部は静かに「そうか」と言うと、再び沈黙した。
信号が赤になって乗っているタクシーが止まる。
すぐにでも降りて走り出したい衝動に駆られる。
思わずため息が出た。
日下部の心配そうな視線を左頬に感じる。
「私が、あんなものを」
その言葉に日下部は「バカ言うな」と制した。
私の掌の中にある携帯電話のディスプレイの中で景子と唯が笑っている。
「日下部、」
声が声にならないほどの呟きで、私は言った。
「私が、あんな台本を書いたからだ。だから、景子は……」
信号が青に変わり、腰の下で重低音を響かせてタクシーが走り始める。
橙色の街灯がコマ送りのように繰り返し繰り返し、景子と唯の笑顔を明滅させる。
しばらく走ってから、車が左折をしようとした瞬間に、日下部が言った。
「大丈夫だ。大丈夫だ、きっと」
日下部の瞳が夜の闇に浮かぶ『山岡記念病院』という緑色の光を見上げていた。



  つづく