『 記憶 』


   ***シーン003 @峰島文雄

「日下部はよく来るのか?ここ?」
顔を赤くした隣の男に尋ねた。
日下部はネギマのネギと鶏を一緒に頬ばって、なんのためらいも無く言った。
「いや?」
「いや?って。でも、来たことあるからここ、来たんだろ?」
「いや?」
日下部は鶏とネギ。鶏とネギ。で残り最後の鶏だけ。を食べて言った。
「来たことないよ。ねぇ?おじさん」
おじさんは隣の別の客にモツ煮込みの皿を置いて、日本酒のお代わりを注いでから言った。
「来てくれたことないよ。クサノさんだっけ?」
おじさんは歯切れの良いそのさっぱりした言い方が後に引かない。
日下部は、「うん。クサノでOK」と言って、砂肝と雛鳥とカシラを頼んだ。
それから、思い出したかのように言った。
「気には、なってたんだ。このへんの屋台。えっと、博多だっけ?ずらーっと出てるじゃん?行ったこと、ないか?」
私はひとつ頷いた。
「博多は、九州の、な」
私は頷いた。それは知っている。
「あそこ、ずらーっと並ぶんだよ、屋台。ラーメンとか、ラーメンとか、なんだっけ?ラーメンとか?俺もあんまり知らねぇけど。公演で一回行っただけだから」
言って、日本酒で口を潤して、続ける。
「そこまでの規模じゃないけど、ぽつ、ぽつとあるでしょ?このへん。あと神田のへんも」
私は頼んでいた鶏ももを頬ばって頷いた。
「気になってたんだ。それだけ」
私は「そうか」と相槌して日本酒を口にした。
ふと頭の上で電車の通り過ぎる音がして、それをゆっくりと聞き終わってから日下部が言った。
「峰島はどうなんだ? サラリーマンってのは?」
「ぼちぼちだ」
日下部の質問攻めが始まる。
「ぼちぼちってどうなんだ?」
「良きも悪きもトントンってとこ、かな?」
「トントンか」
「トントン。」
「なぁ?峰島?トントンってどのくらいだ?」
「日々、とりあえず、無事な感じだ」
「じゃあ、とりあえず、無事。ってどんな日々だ?」
「日下部が求めるような、劇的なものは何もない日々のことだ」
「劇的が、無い。」
「そ。劇的が無い。」
「劇的が無いのは俺もそうだ。俺も、峰島が想像してるような劇的なことは何もない。日々、役者と勝負して、勝って、負けて、でも、演出家は勝たなきゃいけない。勝つことだけの日々だ」
「そうか、うらやましい」
「うらやましいと思うか?」
「ああ。日下部がうらやましいよ」
「じゃあ、」
そこから先の言葉が聞きたくなくて、私は言葉を挟んだ。
「日下部?酒、やめたんじゃなかったのか?」
日下部はひとつ大きくため息をついて、言った。
「ストレスたまるんだよ。俺の仕事も」
日下部はグラスを空にすると、おじさんにグラスを傾げて言わずに告げた。
グラスにお代わりが注ぎ終わるのを待って、呟くように言った。
「本当にやりたいことがまだできずにいる」
私は無言で見送った。
「なぁ、峰島?」
私はもう一度、無言だった。
「さっき、俺に言わせなかっただろ?」
「何を?」
「今日の本題」
私は、今、あきらめた。本題を聞こう。けれど、用意した答えはひとつだった。
日下部が、言葉を選ぶように間をとって、けれど、素直に出た言葉を拾うように言った。
「やりたいんだ。もう一度」
「台本なら、使えばいい」
「今のお前に、今の峰島と今の俺で創りたいんだ」
「私には無理だ」
「やってみないとわからん」
「離れすぎてる」
「舞台からか?」
「文字からだ」
「いつから書いてない」
「もうずっとだ」
「本当か?」
「………本当だ」
「もう、無理か?」
「もう、………無理だ」
それが、私の用意した答えだった。
日下部は残念そうに「そうか」と呟いた。
電車の発車する音がする。
聞き慣れた発車のメロディーが聞こえて、聞き慣れたドアの閉まる音がする。
聞き慣れたアナウンスが聞こえて、聞き慣れた軋む音を立てながら列車は出ていった。
私が昔描いたシナリオは、もうあの列車に乗せるだけ乗せて、終点まで持っていってくれ。そう、決めた。
決めたかった。
だから、頑なに拒んだ。
怖かった。
恐かった。
自分が、昔の自分に負けていく気がして。
だから、勝負なんかしたくない。
役者と勝負する、そんな日々の連続なら、その連続のひとつを経るのは日下部でいい。
だから、これ以上、大学生の頃の自分と、今の峰島文雄を戦わせないでくれ。そう言いたかった。
目の前の皿に、日下部の頼んだ砂肝と雛鳥とカシラが2本ずつ置かれた。
それをじっと見据えたままで静かに日下部が口を開いた。
「俺もさ、こわいよ」
私は目を閉じて、だけど、親友の言葉に、心までは閉ざせずにいた。
「俺もさ、演出家なんてやってるけど、迷ってばっかりだ。ひと公演乗り切るのに必死で。今月を乗り切るのに必死で。今週を、この3日を乗り切るのに必死で。でも結局、今日を乗り切るのに必死で。ときどき、こんなんでいいのか?って思う。思わされる。40過ぎて、少しはマシになった気もする。けど、こわいよ。変わらねぇよ」
日下部は頼んでいた砂肝を頬ばった。
「けどな、いつかは消えちまうんだ。俺も、峰島も、この世のぜーんぶ。死んだら、なんも残らねぇ。自分じゃわかんねぇ。だから、」
そこまで言うと、串の残り3切れ分の砂肝を一気に頬ばって、続けた。
「満足したいんだ。精一杯やったあの頃の満足感を、せめて、もう一回、味わいたいだけだ。独り善がりなのはわかってる。
 わかってる。けど、けどな、それが俺の存在意義だ。無くなる前に、やっちまいたいんだ。できることをできるうちに」
静かになった。
日下部が手に持った竹串をそれ用の壺に捨てた。
その音が胸の奥まで響いてくるようで。
だけど、残ったのは、確信だった。
もう、私には、日下部のような情熱的な存在意義は残っていないという確信が。
ふたりしてじっと眺めていた。おじさんが次々焼いていくその手さばきを。
別の客の注文が焼き上がるのに合わせてケータイが鳴った。
娘の唯(ゆい)からだった。
私はケータイを左耳に当てて、席を離れた。
日下部に右手で「すまん」と合図を送った。
左耳に唯の声が聞こえる。
「おとうさん、」
めずらしく急いて言う。
「おとうさん、」
「どうした? 聞こえてるよ」
唯は電話越しの私を確かに認めて、言った。
「おかあさんが、」
「え?」
「今、病院」
「救急車は?」
「私が呼んだの」
「今、どこだ?」
「山岡記念病院です。学校のそばの」
娘は冷静だった。
私は混乱していた。
状況が飲み込めないまま、けれど、頭の奥にいる、一際客観的な自分が言った。---「私より大人じゃないか」
私はとにかく伝えた。
「わかった、すぐ行くからそこで待ってなさい」
娘は心細そうな声で「うん」とだけ応えた。
電話を切った私に日下部が声をかけた。
「どうした?峰島?急ぎか?」
私はケータイの待ち受け画面に並んだ妻と娘を見つめたまま日下部に告げた。
「景子が、倒れた」


  つづく