母は、中枢神経原発性悪性リンパ腫を患ってまだ4か月。
通院が出来ず、
私は、訪問医療に頼ってみることにした。
医師は男性をもう一人連れてやってきた。
女性を診るのに、男2人、という時点で、診る気があるのか、
不安を感じる。
医師は母の部屋へ入ると、具合を尋ねた。
母はにこやかに、調子はとても良いと返答。
すると医師は私に、では、お隣の部屋へ行きましょう。
と、母をスルー。
嫌な予感ばかり。
医師は座るや否や、
私が聴いた、母のお尻の恐らくオムツかぶれについて、
見せてくれなきゃ、診れない。写真を送ってくれたら、
薬を処方すると言い出した。
来週、ヘルパーさんと清拭に挑戦するため、その時まで
写真は無理だろう。
自分だったら、掻き壊しはないのか、
お尻のどの部分なのか、
出血はあるのか聴いて、せめて亜鉛華なりの
対処をその場で考えたと思う。
内心、あぁ、医師に相談しなくても、市販のオムツかぶれの薬を買えば済んだと
言ったことを後悔。
医師は更に、目が最近見えないのでは、という悩みに対して、眼科へ行ってくれと。目は母は見えている。見たくないものを見てないだけだと。
私が心配しているのは、母は病気を患った際、
病気ならではの目の症状を持っていた。(なんという名の病気だったか、出て来ません)
それが再発によって悪化しているのでは、、という心配をしていたのと、脳梗塞を起こした時の症状なのか、
いずれにせよ、母が見えないことでかなりストレスを感じているので、医師として確かめるなりの何等かを
確認して欲しかったのに。
足と腰が悲鳴をあげるほど痛がることについては
その現場を見せてくれなければ分からないと。
医師は母が元気だと言った時点から、そのまま引き下がり、
診てもいない。
そして、母は認知の問題で
今痛くなければ表現できない。 具合を聴かれて
最近の状況をまとめてしっかり話す力は既に失われていることに対しても、認知症を否定し始めた。
そして更に、本人が介護拒否をしている場合、
そこに無理やり介入するのは人権問題だと。
完全に心が折れた。
私は母が介護医療拒否により、自らを死に向かわせていることを分かっている。
そして何よりも、医師でなくても私がそんな母を受け入れ、悪くこれからなっていくことを認め、
そして、そんな母に自分は人としてどう隣にあれるのか。
前向きに向き合おうとしている。
だからと言って、じゃぁ、本人がそう望んでいるのなら、
手出しは人権問題。 好きにしてください!と言うのが
正しいのか。
向き合わねばならい。と介護側を、その様な世間の偽善の価値観で縛り、追い込むのは間違っている。
でも、その日私は、
母のその様な生き方を尊重し、
そのうえで、既に認知症で自己表現が出来ない母の状況を
医療を受けに行けない代わりに、
少しでも改善していこうと思って座っていた。
医師は、診てもいないのに、自分はいなくてもいいくらいだと、言い放った。
本人がそう言うんだから、人権を尊重して勝手に死ね、
と言っているんだけど、 これが、未来ある若者の自殺でも、そう飛び降りる直前の本人の前で言い放てるんですかね。この医師は。言えるのなら、引き下がりたい。付き合えないけど。
私は、仕事で人と関わる以上、
医者であろうが、他者の存在価値について、
血の通った仕事をすべきだと思っている。
沢山の私は、社会では生き辛い方々と仕事を通じて出逢ってきて、幸いにも、1つの出会いに対して、親身で、熱く、絶対に放り出さない先輩方に私は恵まれて来た。相手がどう暴言を吐き、
周囲を困らせても、家では無理、ということは、相手の問題ではなくて、自分たちの力量の問題であると、学んできた。工夫と知恵は出せる。
最後に母は、見せることが出来るのならお尻を見て行きましょうか、と見に来ない医師の前で遠くから抵抗した。
すると、あぁ、じゃぁ、写真でも。と。介護拒否を確認し合う行為となる。 ただし、介護拒否をしている母に、いきなり男性2人でお尻をみせろ、と言われて、はい、と言う訳がなく、断った母は、この場合に限り介護拒否なのだろうか。言わせてないか。
私も最後に試す気になった。
ワセリンと、もう一つの抗真菌剤。 この抗真菌剤を母が陰部にどう使ったのかは知らないが、病院から持ち帰った。
私は、決して自分だったら、オムツかぶれにこれを使わない。
これを、病院から持ち帰ったのですが、、、
オムツかぶれに使えますか?と質問。
医師は、使えばいいんじゃない?
それで良くなれば使い続ければいいし。と。
駄目だと思い、この医師は母を初めから拒否していると思い、夜、ワセリンを濃い目にお尻に塗布をした。
翌朝、手作り座浴シャワー後に
もう一度塗ると、そのまま改善の兆しがみえてきた。
そのまま、ケアマネさんに、こちらから、お断りの電話を入れた。
母は介護拒否をしている。
その背景を考えず、本人の意思を尊重しろと
迷惑だから、と、デイケアも病院も、
本人を否定する。
だけどね、
どう違うように努力しようが、
私はあの人から生まれたのよ。
世間が
あの人の生きるを否定することは、
究極、私の生きるを否定している。
私は今、そんな母を受け入れられなくても
知ろうとし、自分の生きるを探っている。
お利巧に、右に倣えをしている人だけが
救うに値する命ですか。
自殺企図においても、全てのネガティブな事象でも、
そのような今を理解され、
本人がその中でも最善を探る。
その様な人の人生に、立ち止まりたい。
自殺企図を否定するつもりもないけれど。
だったら、そうなっちまえ、というのは
母に対する人権保護ではなく、
凶器だと、
即ち、そういう医師の抱えた心の傷への言い訳だと
自身へ向けた凶器だと
その凶器から痛みを感じないための自己弁護だと
しっかりおし、と
私は1人、医師の車を見送りながらこっくり頷いた。