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a depressed and fragile mechanical engineer

うつ病患者として、機械技術者として生きる小市民が、仕事や治療の日常生活、裏話、ウンチク、経験談、失敗談を綴ります。それと並行して読書で出合った本の紹介と論考を披露します。

こんばんは。

機械技術者「おだぐ」です。

 

企画「ソースコードは書くのか?読むのか?」の第3回目です。

今回からは私とソースコード、私とソフトウェアの関わりを幼少期から時代順位記憶を掘り起こす作業をしてみます.

 

まずは小学生の頃から思い出してみましょう.

私は1975年生まれです.

私はかなりぼんやりとした少年だったと記憶しているので今回のお話は1980年代のエピソードになります.70年代のエピソードの掘り起こしは断念します。

この頃はそもそもソースコードという言葉は知らないし概念的にも抱いていなかったと思います.

 

じゃあソフトウェアとどういう関わりがあったのか、あるいはなかったのか.

やっぱり始まりはゲームセンターだったのかな、と思います.

今で言うアーケードゲームですね。当時もアーケードゲームという言葉はあったのかも知れませんが私の周りでは使われていなかったように思います。

 

幼い頃はゲームで遊ぶ=ゲームセンターに行く、と同義でした.

家庭向けゲーム機は市販はされていましたが我が家には無かったです。ある時期まで無かったのです。.

当時の私にはゲームセンターという場所はキラキラして見えましたし、実際画面や照明はキラキラしていたように思います.

 

じゃあ頻繁にゲームセンターに通っていたのか?と言えばそうではないのです.

2023年に生きる皆さん/我々にはわかりにくいかも知れませんが、当時「ゲームセンター=不良の溜まり場」みたいな悪いイメージも強く伴っていた場所でした.

イメージだけの話だったらまだいいのですが、近所の子供がカツアゲされた事案とか情報が流れていたので全くの嘘でもなさそうだ。警察やPTAのパトロールの対象にもなっていました。

 

すると私も友人たちもその親達も

 「ゲームセンターは怖い場所」

という認識は濃淡の差こそあれみんな抱いていたはずです。

子供達からすれば

 「怖いけど行きたい、行きたいけど怖い場所」

という感覚ですね。

ですので私の場合は父か母と一緒じゃないとゲームセンターに行く許可自体降りなかった.そんな時代背景がありました.

 

加えて言えば私は小遣い制とかじゃなくて、現金が必要な時に親に申請してお金もらう、という方式のお家でしたので、そもそもゲームセンターで使うお金を持っていない.そういう事情もありました.

 

私の記憶では小学1、2年生の頃に生まれて初めて買った週刊少年ジャンプはブラックエンジェルスが表紙の号で160円か170円の価格だったと思います.これを買うためのお金を親に申請するのも勇気が要る時代です.

 

これに対してゲームセンターに行けたとしてもポパイを一回、ゼビウスを一回やったらもうそれで200円使うことになります.ジャンプ一冊の価格を超えます。私みたいにプレイが下手くそな輩だと3分や5分で200円が溶けるわけです。体感速度としては一瞬でジャンプ越えです。恐ろしいことです。

 

これだと頻繁にゲームセンターに通うとはなかなかできないものです、経済的にも心理的にも。

本当はギャラガやギャラクシアンもやりたいのに…。

インベーダーゲームもまだありましたね、ブームの時期とはズレるようですが。

 

そんな感じで私とソフトウェアの関わりのスタート地点はゲームセンターに対する眩しいまでのキラキラがあったのだと思います。けどまだこの頃はソフトウェアという概念は明確では無かったかもしれませんね。

あるいはコンピュータというモノ、概念もあやふやだったかもしれないです。

 

自分の中で「ソフトウェアという概念」というものがもうちょっと明確になるまでには幾つかのエピソードを追加しなければなりません。

思いつくままに以下に挙げてみます。

 

 ・ゲームウォッチ

 ・任天堂のファミリーコンピュータ(初代です)

 ・映画のCG表現。最初は「TRON」かな。10代に入ると「AKIRA」にやられました。

 ・父蔵書のBASIC本を何度も読む。(読むだけ)

 

それぞれそこそこの情報量のある文章になりそうな気がしますのでまた項目を改めて次回以降に書き出してみます。