11月の織田家の出来事をまとめます。

 

11月1日

天正5年(1578)11月1日

織田信長は織田信雄へ、春日若宮の拝殿領の大和国宇多郡宇賀志庄と、五節供料所の西殿庄を大和国人の沢氏と秋山氏が押妨(他人の所領などに押し入って乱暴を働いたり、不当な課税をしたりすること )しているので、この違乱を停止させることを命令します。

「小川文書」「続南行雑録」

 

11月2日

天正3年(1575)11月2日

多聞院英俊は在京中の大乗院殿の御書により、織田信長の公家ニ可成くこと、四日に宣下があり十日には参内、十五日には陳座が設けられることを知ります。

「多聞院日記」

 

11月3日

天正4年(1576)11月3日

細川藤孝は吉田兼見を訪問し、明日の織田信長の上洛にあたり出迎命令を通達します。

「兼見卿記」

 

11月4日

天正4年(1576)11月4日

公家衆は織田信長に祗候するも、遅参により謁見は無くなります。

「兼見卿記」

 

11月5日

天正4年(1576)11月5日

吉田兼見は早々に松井友閑と猪子高就を訪問します。

「兼見卿記」

 

11月6日

天正4年(1576)11月6日

織田信長は京都東山で鷹狩をします。 この朝の訪れた使者の通達により、吉田兼見は茶菓子を携え東山慈照寺へ祗候、信長に謁見します。

「兼見卿記」

 

11月7日

天正元年(1573)11月7日

織田信長は小早川隆景へ、北国属を平定した祝儀として太刀と馬の贈与を謝して上洛したので毎事京都より通知を発することを告げます。「小早川家文書」

 

11月8日

天正6年(1578)11月8日

下間頼廉は宇喜多直家へ毛利水軍が石山本願寺救援のために摂津国木津浦へ到着したこと、荒木村重より証人と血判之誓詞が提出されたこと、荒木村重と毛利氏被官の乃美宗勝、児玉就英との往来があることを通知します。

「毛利家文書」

 

11月9日

天正6年(1578)11月9日

織田信長は京都から摂津国へ向けて出陣し、山城国山崎に布陣します。

「信長公記」

 

11月10日

天正6年(1578)11月10日

織田信長は滝川一益、丹羽長秀らを摂津国茨木へ、織田信忠、織田信雄、不破光治、前田利家、金森長近らを摂津国高槻へ派遣します。また宣教師オルガンチノに佐久間信盛、羽柴秀吉、松井友閑らを同行させ高山右近(重友)を説得します。

「信長公記」

 

11月11日

天正6年(1578)11月11日

織田信長は佐々長穐へ能登国の長好連が越中国森山へ退去したとの報告を受けて来春は援軍を派遣する予定であることを通達します。「長家文書」

 

11月12日

天正6年(1578)11月12日

武田勝頼は遠江国高天神城より甲斐国へ退却します。

「家忠日記」

 

11月13日

天正6年(1578)11月13日

織田信長は安土より入京して羽柴秀吉へ荒木村重謀反に対する処置を命令します。

「信長公記」

 

11月14日

天正6年(1578)11月14日

織田軍は荒木村重の籠城する摂津国有岡城に攻撃を開始します。

「信長公記」

 

11月15日

天正6年(1578)11月15日

小早川隆景は粟屋元種へ「弥無二ニ遂馳走」げている荒木村重に「当家之御人体」の速やかな派遣、また小早川が布陣している笠岡にも「御親類衆并御奉行衆御一人宛」の派遣を要請する案文を認めます。

「毛利家文書」

 

11月16日

天正元年(1573)11月16日

織田信長は佐久間信盛を以て非儀を構えた三好義継(左京大夫)を自刃させます。

「信長公記」

 

11月17日

天正6年(1578)11月17日

織田信長のもとへ高山右近(重友)が伺候し、信長公へ帰服の御礼を言上 します。 信長はこれを喜び、着ていた小袖を脱いで右近に与えたほか、埴原新右衛門献上の秘蔵の名馬もあわせて下賜します。

「信長公記」

 

11月18日

天正6年(1578)11月18日

織田信長は摂津国総持寺に移陣します。 織田信澄勢に命じて茨木城の小口を押さえさせます。

「信長公記」

 

11月19日

天正6年(1578)11月19日

武田軍は遠江国青島より遠江国田中まで退却します。

「家忠日記」

 

11月20日

天正6年(1578)11月20日

織田信長は細川藤孝へ、摂津国有岡城より脱出した連中が摂津国尼ヶ崎で城内状況の報告をなしたことを諒承し、監視を付けて対処することを指示します。

「細川家文書」

 

11月21日

天正3年(1575)11月21日

織田信長は秋山信友が御赦免の御礼のために参上したところを捕縛し、美濃国岐阜に送還し、長良川の河原で張付に処します。また織田軍は遠山一党を全滅させます。

「信長公記」

 

11月22日

天正6年(1578)11月22日

羽柴秀吉は美作国の新免宗実へ、新免無二斎の派遣と美作国方面の状況報告に対して織田信長御朱印が発給され、美作国吉野郡・佐用郡・八頭郡を安堵することになった旨を通達します。

「新免文書」

 

11月23日

天正6年(1578)11月23日

織田信長は滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀へ中国方面の戦況報告を諒承し、毛利氏への勅使下向は寒天の時分でもあり、「路次送」も不充分であるので延引することを京都に上申するよう命令します。

「立入文書」

 

11月24日

天正6年(1578)11月24日

織田信長は、荒木村重についていた中川清秀を帰参させることに成功します。

「立入左京亮入道隆佐記」

 

11月25日

天正6年(1578)11月25日

武田勝頼は遠江国高天神城より甲斐国へ退却します。

「家忠日記」

 

11月26日

天正6年(1578)11月26日

織田信長は中川清秀へ金子30枚、高山重友へ金子20枚を下賜します。

「信長公記」

 

11月27日

天正6年(1578)11月27日

織田信長は摂津国古池田の陣所で中川清秀の出仕を賞賜します。

「信長公記」

 

11月28日

天正6年(1578)11月28日

松平家忠は遠江国掛川城にて池野有助の来訪を受けます。

「家忠日記」

 

11月29日

天正6年(1578)11月晦日

松平家忠らは、武田勝頼が去11月25日に遠江国高天神城より退却したという報により、遠江国浜松城へ退却します。 家忠は徳川信康が既に三河国に滞在していることを知ります。

「家忠日記」

 

11月30日

天正6年(1578)11月30日

織田信長は細川藤孝へ入念なる度々の注進を賞します。そして明智光秀と相談して頃合の指示を仰ぐよう通達します。

「細川家文書」